資料区分 古文書
請求番号 P0709
文書群名 黒巖有治家文書
伝存地 吾妻郡長野原町応桑
出所 吾妻郡長野原町 黒巖有治家
地名 吾妻郡狩宿村/吾妻郡狩宿村/吾妻郡狩宿村/吾妻郡狩宿村/吾妻郡応桑村狩宿/吾妻郡応桑村狩宿/吾妻郡長野原町大字応桑
旧支配 沼田藩領/幕府領(天和元年~)岩鼻県(明治元年~)/群馬県(明治4年~)/熊谷県(明治6年~)/群馬県(明治9年~)
役職等 吾妻郡応桑村・与喜屋村連合戸長、同応桑村区長、吾妻郡書記、北白川宮家浅間牧場主事、長野原町長など
歴史 狩宿村は浅間山北麓、東は浅間隠山に続く尾根で限られ、北は与喜屋村・古森村、西北は小宿村。南から西の大部分が当村など山付6ヶ村の広大な南木山入会地に接している。村高は「寛文郷帳」では57石余(田方7石余・畑方50石余)、「元禄郷帳」99石余、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに107石余。幕末の改革組合村高帳によれば、大戸村寄場組合に属し、高107石余。家数53。狩宿の関所は慶安4年真田伊豆守信幸によって私的に設けられたが寛文4年幕府の許可を得た。中山道の脇往還として鳥居峠から大笹ー狩宿ー大戸ー高崎へ抜ける。また信州沓掛から狩宿村を通り草津温泉への湯治客も通った。このため、羽根尾村と人馬の継立をめぐり紛争が起きている(№14)。黒巌家は名主を務め茶屋本陣を経営していた。
伝来 黒巖家に伝来した文書群。平成21年3月文書館に寄託、その後寄贈された。
数量 577
年代 寛文4年(1664)~昭和34年(1959)
構造と内容 資料の半数近くを黒巌有哉氏関係の文書で占める。資料群は大まかに①狩宿村近世文書と、②明治期から昭和にかけての近現代文書、③黒巌家の私的文書に分けられる。 ①の文書としては、貞享3年の狩宿村検地帳(№1、2)、明和9年の狩宿村新田検地帳(№3)、浅間山周辺の村々との入会関係の文書である。②の文書の特徴として、黒巌有哉氏が、北白川宮家が開発した浅間牧場に奉職した関係から、書簡などの来信がある。また、近世より引き続いて浅間山の南木山の払下げをめぐる文書がある。
検索手段 黒巌有治家文書目録、インターネット検索目録
関連資料 応桑村関係文書:黒岩初音家文書(P99204)、長野原町応桑区有文書(P9501)など、応桑区有文書(H63-9-1近世)・黒岩斉治家文書(H63-9-2近世)・黒岩助太郎家文書(H63-9-3近世)など。(参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など)
利用上の留意点 「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の取扱いに関する要綱」第5条(利用の制限)及び「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の閲覧制限基準」第2(非閲覧文書の指定事項)により閲覧が制限されている文書は本目録から除外した。
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