資料区分 |
古文書 |
請求番号 |
P1105 |
文書群名 |
高橋あつ子家文書 |
伝存地 |
吾妻郡東吾妻町須賀尾 |
出所 |
吾妻郡東吾妻町(旧吾妻町) 高橋あつ子家 |
地名 |
吾妻郡須賀尾村/第五十大区第五小区須賀尾村/北第二十大区第一小区須賀尾村/吾妻郡須賀尾村/吾妻郡坂上村大字須賀尾/吾妻郡原町大字須賀尾/吾妻郡吾妻町大字須賀尾/吾妻郡東吾妻町須賀尾 |
旧支配 |
大胡藩領(牧野駿河守、天正18年~)/幕府領(代官岡上次郎兵衛、寛永15年~)/岩鼻県(明治元年~)/第一次群馬県(明治4年~)/熊谷県(明治6年~)/第二次群馬県(明治9年~) |
役職等 |
江戸時代中・後期の須賀尾村名主・組頭・年寄など。▼高橋家当主:江戸時代中期~明治初期は代々「伊兵衛」、明治期は眞三郎、慶重など。 |
歴史 |
吾妻川支流の温川左岸に位置し、河岸段丘上に集落・耕地が分布する。また、榛名山の西北西に位置し、南西には浅間隠山がそびえる。▼承応2年(1653)、本宿村の御巣鷹山裾野甘酒原の入会秣場利用をめぐり境論が起きた。寛文5年(1665)、大柏木村を分け2村になったとされる。▼村高は、「寛文郷帳」では287石余のうち田方24石余・畑方262石余、「元禄郷帳」「天保郷帳」では共に325石余、「旧高旧領」では325石余、である。▼街道は、村の西部に分岐点があり、左は標高1,380mの万騎峠越えで狩宿関所を経て鎌原宿へ通じ(信濃沓掛道)、右は須賀尾峠越えで長野原を経て草津温泉へ通じる(大笹街道)。▼当宿は、信州飯山・須坂・松代の3大名の廻米、信州・西吾妻地域の物資、善光寺詣や草津温泉入湯客の往来で繁栄した。また、中山道の脇往還として3~10月には人足10人、馬5匹を備えていた。▼文政10年(1827)の村明細帳では家数110軒、幕末の改革組合村高帳では家数118軒であった。▼嘉永5年(1852)から15年間、中山道軽井沢宿の代助郷をつとめた。▼大戸関所付村のため、将軍の上洛や日光社参の際は番小屋を設け固め人足で詰めたり、普請の時は夫役を課された。 |
数量 |
763 |
年代 |
慶長15年(1610)7月 ~ 昭和23年(1948)10月 |
構造と内容 |
おもに吾妻郡須賀尾村関係の近世文書である。高橋家は、名主などを務める傍ら、松代藩などの廻米や信州酒の伊香保温泉への請け売り、金融なども行っており、これらの文書も比較的多い。▼また、本宿村との御巣鷹山入会秣場利用境論や各種訴訟関係の文書も多く含まれている。▼明治初期の信州沓掛宿への新道開鑿関係史料も揃っている。▼当文書群を年代別に分類すると、近世以前の文書650点(全体の85.1%)、明治期の文書112点(同14.7%)、昭和期の文書1点(同0.1%)、年次不詳文書1点(同0.1%)となっている。▼また、吾妻郡須賀尾村の近世名主関係文書が671点(全体の87.8%)、吾妻郡須賀尾村(吾妻郡坂上村大字須賀尾など)の近代文書が62点(同8.1%)、高橋家私的文書が31点(同4.1%)である。▼近世名主文書の内容は、年貢割付状等の貢租関係219点、村行政124点、宗門人別改帳等の村況・戸口102点などである。▼高橋家私的文書については、地主・村会議員・坂上尋常小学校須賀尾分教場在勤等の家業(19点)が多い。 |
検索手段 |
高橋あつ子家文書目録、インターネット検索目録 |
関連資料 |
同家の県史複製資料として高橋達夫家文書(H62-16-1近世)。▼同家や古文書に言及されている萩原進『あがつま史帖』(西毛新聞社、昭和38年)。▼同じ須賀尾の古文書として丸山正史家文書(P1104)、同家の県史複製資料として丸山不二夫家文書(H62-16-2(1)近世、H62-16-2(2)近世)。▼ほかに東吾妻町に所在した古文書等。▼(参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など) |
利用上の留意点 |
「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の取扱いに関する要綱」第5条(利用の制限)及び「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の閲覧制限基準」第2(非閲覧文書の指定事項)により閲覧が制限されている文書は本目録から除外した。 |