資料区分 |
古文書 |
請求番号 |
P1303 |
文書群名 |
狩野一郎家文書 |
伝存地 |
渋川市 |
出所 |
渋川市 狩野一郎家 |
地名 |
群馬郡半田村(近世期)/西群馬郡半田村(明治11年~)/西群馬郡古巻村大字半田(明治22年~)/渋川市半田(昭和29年~現在) |
旧支配 |
井伊直政領(天正18年)/高崎藩領/安中藩領(水野元綱氏、寛文2年)/幕府領/旗本領(堀氏、寛文11年)/前橋藩領(慶応3年)/岩鼻県・前橋藩領(明治元年)/前橋県(明治4年)/第一次群馬県(明治4年~)/熊谷県(明治6年~)/第二次群馬県(明治9年~) |
役職等 |
群馬郡半田村名主など |
歴史 |
半田村は群馬郡のうち、江戸期~明治22年(1889)の村名。村高は、「寛文郷帳」で857石余のうち田方284石余・畑方573石余、「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領取調帳」は全て同高。鎮守は、享保2年(1717)に建立された早尾神社で、宝暦9年(1759)に関東地方で大雨が降り利根川の洪水で埋没、その後拝殿が現在地に再建された。寺院は、曹洞宗玉輪山竜伝寺で、天正9年(1581)信濃国長国寺角翁隨鱗禅師が開山した。元は小字浄法院の地にあったが、天明3年(1883)浅間山噴火による泥流で伽藍が埋没し、現在地に移転した。天明3年の浅間山噴火による当村の被害は、泥押し田9町6反1畝・畑43町1反1畝、流死者9、流失家屋8、流死馬8で、その後田や屋敷を流出した者は新屋敷へ引き移った。熱泥押し後の復興・村の状況は、天保15年(1844)作成の半田大絵図(高橋家文書)に描かれている。幕末の改革組合村高帳では、渋川村寄場組合に属し、高857石余、家数135。安政2年(1855)の渋川村組合村柄書上帳(堀口家文書/『群馬県史 資料編13』)によると、家数142・人数644、馬45で、利根川に渡船があり、男は柴薪刈、女は機織り・絹糸・木綿などの糸引きで稼いだ。 |
数量 |
1 |
年代 |
天明3年(1883)7月以降 |
構造と内容 |
〔天明三年 浅間山噴火被害絵図〕1点(№1)である。この文書(絵図)は、すでに『群馬県史 通史編6 近世3』の付録(付図)となっている。その後、平成25年度の当館レファレンス業務の過程で、付図のキャプションにある「東京都文京区 亘正夫氏所蔵」という記載が誤りであり、狩野一郎氏の所蔵であることが判明した。その際に、狩野氏から当館へ絵図原本(軸装)が寄託された。絵図は、上野国全般とその周辺部が描かれているが、噴火した浅間山や直接的な噴火被害があった吾妻川沿岸(泥流被害)地域、中山道・下仁田道沿い(降灰被害)地域が強調されている。特に凡例記載はないが、泥流被害地域はこげ茶色、降灰被害地域は薄茶色、街道は朱色、近くの比較的標高が低い山は薄緑色、遠くの比較的標高が高い山は薄藍色、被害地域周辺部の村々は薄黄土色、などに塗り分けされている。また、子持神社・水沢観音・白岩観音・妙義神社・貫前神社・八幡神社・赤城神社(三夜沢)・美和神社(桐生)などの社殿、大笹・狩宿・大戸・大渡・實政・五領(五料)などの関所が描かれている。 |
検索手段 |
狩野一郎家文書仮目録、インターネット検索目録 |
関連資料 |
(参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など) |
利用上の留意点 |
閲覧・複写は複製物(全体図・分割図)による閲覧とする。 |