資料区分 マイクロ
請求番号 PF0001
文書群名 群馬郡群馬町 内山幹雄家文書
伝存地 群馬郡群馬町(現高崎市)
出所 群馬郡群馬町 内山幹雄家
地名 群馬郡西国分村/西群馬郡西国分村(明治19年~)/西群馬郡国府村(明治22年~)/群馬郡国府村(昭和28年~)/群馬町西国分(昭和62年~)/高崎市群馬町西国分(平成18年~)
旧支配 総社城主諏訪因幡守頼永(天正17年~)/総社城主秋元越中守長朝(慶長6年~)/高崎藩領(寛永10年~)/幕府領(宝永7年~)/沼田藩領(寛保3年~)/前橋藩領(延享4年~)/前橋県(明治4年~)/群馬県(明治4年~)/熊谷県(明治6年~)/群馬県(明治9年~)
役職等 聖護院流本山修験 風智山大蔵坊正年行事
歴史 西国分村は寛文郷帳では田方28石余、畑方144石余。延享4年(1747)の村明細帳によれば、田方3町8反余、畑方28町余。明治10年頃の家数58軒、人数277人。▼大蔵坊の起源は不詳であるが、天台系本山派修験の本山である京都聖護院24世道興准后の著した「廻国雑記」に、文明18年(1486)7月下旬に10日余り道興が大蔵坊に宿泊している。▼大蔵坊(内山家)は本山派修験の年行事を勤め、在地の修験者の熊野参詣の先達として活動した。江戸期から明治初年頃まで群馬郡内に配下寺院(同行)をもっていた。朱印高13石2斗、反別1町8反歩。▼江戸中期以来内山行信・行音ともに当村一帯の子弟に教学した。(『国府村誌』)。▼本山修験宗の総本山である聖護院は、もと天台宗寺門派の大本山で、三門跡の1つ。室町時代の門跡道興准后は全国の熊野系山伏を歴訪し、本山派と呼ばれる天台系修験教団の組織を確立した。その組織は聖護院を本山とし、京都にある住心院などの院家を中核とし、地方の修験や熊野先達などを通して全国の修験者を統轄した。
伝来 昭和61年10月に寄託された内山家文書を、平成12年5月にマイクロフィルムに複製し公開した。
数量 596
年代 慶長18年(1613)~明治18年(1885)
構造と内容 本文書は、①聖護院流本山派修験大蔵坊文書 ②西国分村関係文書とに分類できる。①大蔵坊は天台系修験である聖護院流本山派の年行事を勤めた。▼本山派では、信者が居住する地域を「霞(かすみ)」と呼び、その管理を年行事が行った。年行事の下には、末派修験である「同行(どうぎょう)」を配した。▼元禄5年(1692)の「正年行事大蔵坊霞下同行書上」(№586)では、12ヶ所の同行寺院を支配していた。▼霞村を分ける文書や、同行寺院の年行事直接支配か、本山直接支配「直院(じきいん)」かをめぐる文書や、大峰山への修行登山である「入峯(にゅうぶ)」に関する願書、上納金などの文書、継ぎ目や坊跡譲渡などの相続関係文書がある。▼②西国分村関係文書は文書全体の1割以下で、延享4年「西国分村明細帳」(№404)、宝暦9年(1759)の「割付状」(№370)などがある。
検索手段 群馬郡群馬町内山幹雄家文書目録、インターネット検索目録
関連資料 本山派修験関連文書として、長見寺文書(P0006)、栗崎智康家文書(日野坊、P8207)、浦野恒彦家文書(大乗院、P8907)、浦野安孫家文書(大乗院、和田山極楽院、P0603)、小幡宰太郎家文書(寶常院、P0503)、長尾貞治家文書(東覚院、P01902)、上杉うづ家文書(三宝院鷹巣寺、H10-24-1近世)、「吉井町郷土資料館文書9(伊藤幸吉家文書)」(矢田坊、H42-1-1(9)近世)など。▼『山伏の地方史 -群馬の修験道-』(みやま文庫)、「上野国本山派山伏名所記」(前橋市立図書館蔵、『前橋市史』6)など。(参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など)
利用上の留意点 内山幹雄家文書(P8508)は本マイクロ資料での閲覧とする。
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