資料区分 マイクロ
請求番号 PF0307
文書群名 吾妻郡吾妻町教育委員会文書
伝存地 吾妻郡吾妻町(現東吾妻町)
出所 吾妻郡東吾妻町(旧吾妻町) 吾妻町教育委員会
地名 吾妻郡原町/吾妻郡原町(原町・川戸村・金井村合併)(明治22年)/吾妻郡吾妻町原町(昭和31年)/吾妻郡東吾妻町原町(平成18年)
旧支配 原町:沼田藩領/幕府領(天和元年~)/沼田藩領(宝永8年~)/幕府領(享保15年~)/篠塚藩領(延享4年~)/幕府領(明和4年~)/駿河沼津藩領(文化8年~)/幕府領(文政10年~)/文政11年一部が旗本大久保氏領となる。/岩鼻県(明治元年~)/群馬県(明治4年)~/熊谷県(明治6年~)/群馬県(明治9年~)。川戸村:沼田藩領/幕府領(天和元年~)/旗本朝比奈・富永・依田氏の相給地と一部は関東郡代伊奈半左衛門支配(宝永2年~)/旗本伊丹氏と前記3氏の相給(延享元年~)/岩鼻県(明治元年~)以下の年次は原町の変遷と同。
歴史 吾妻町(現東吾妻町のうち旧吾妻町地域)の町域の変遷は、明治22(1889)年吾妻郡原町と同郡川戸村・金井村2ヶ村が合併し原町として成立し、昭和31(1956)年吾妻町と改称し、平成18年3月に吾妻郡東村と合併し東吾妻町と改称した。近世期の吾妻郡原町は、上之町組・下之町組(町組)と山根組・上野組・須郷沢組(在組)の5組に分かれていたが、在組3組から元文3(1738)年に分離運動が起こり、同6年(寛保元年)町組と在組とに分離した。寛保元(1741)年の年貢割付(№152-1)の町組分の村高は900石となっている。寛延元(1748)年の在組分の年貢割付(№185-1)では、297石余となっている。原町の村高は「寛文郷帳」493石余のうち田方116石余・畑方377石余、「元禄郷帳」1198石余、「天保郷帳」「旧高旧領帳」とも1211石余。川戸村の村高は「寛文郷帳」339石余のうち田方122石よ・畑方217石余、「元禄郷帳」同高、「天保郷帳」726石余、「旧高旧領」694石余。
伝来 平成15年12月吾妻町教育委員会文書を借用し、文書館にて撮影し、マイクロフィルムに複製する。
数量 347
年代 寛文11年(1671)~昭和25年(1950)
構造と内容 本文書群は、①吾妻郡原町(文書群の9割以上を占める)と②吾妻郡川戸村に伝存した近世期の地方文書である。①の文書の6割は、原町の年貢割付目録と皆済目録である。寛延元(1748)年以降からは、町方組と在方組に分かれて、割付・皆済目録が作成されている。残りの4割の文書は、原町の村政文書で享保年間から元治年間の田辺橋(吾妻川)、山田川橋(四万川)の架替・修覆関係文書。文政年間から慶応年間の中山道軽井沢宿・坂本宿・高崎宿などへの助郷文書。宝暦年間に起きた薪・秣場の入会地をめぐる山境論文書。嘉永6・7年頃の吾妻川通船関係文書などである。②の文書は、文久元年から明治初年にかけて川戸村の旗本4氏(朝比奈・富永・依田・伊丹氏)の年貢割付・皆済目録である。
検索手段 吾妻郡吾妻町吾妻町教育委員会文書目録、インターネット検索目録
関連資料 上原政枝家文書(H62-1-2近世)、湯浅雄次家文書(H62-1-3近世)、高見沢政治家文書(H62-1-4近世)、顕徳寺文書(H62-1-6近世)、山口恵一家文書(H62-1-7近世、H62-1-2近現)など。(参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など)
利用上の留意点 「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の取扱いに関する要綱」第5条(利用の制限)及び「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の閲覧制限基準」第2(非閲覧文書の指定事項)により閲覧が制限されている文書は本目録から除外した。
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