資料区分 マイクロ
請求番号 PF9407
文書群名 群馬郡群馬町 住谷修家文書
伝存地 群馬郡群馬町(現高崎市)
出所 群馬郡群馬町(現高崎市) 住谷家
地名 上野国群馬郡東国分村/前橋県群馬郡東国分村・群馬県群馬郡東国分村(明治四年)/熊谷県群馬郡東国分村(明治六年)/群馬県群馬郡東国分村(明治九年)/群馬県西群馬郡東国分村(明治一一年)/群馬県西群馬郡国府村大字東国分村(明治二二年)/群馬県群馬郡国府村大字東国分村(明治二九年)/群馬県群馬郡国府村大字東国分(大正六年)/群馬県群馬郡群馬町大字東国分(昭和三〇年~現在)
旧支配 前橋藩領
歴史 住谷家は、永禄年間(1558~)に国分に住んだ武士が先祖であるという。代々武兵衛を名乗り享和3年(1803)には酒造業を営んでいた。▼文政2年(1819)武兵衛は前橋藩の勧農付属掛に任命され、藩向領33か村を担当した。▼勧農掛とは、文政2年に農村立て直し対策のために前橋藩が発足させた制度で、住谷家は、小暮村の須田家、力丸村の羽鳥家、前橋竪町の大島家などの有力百姓町人五人のうちの一人であった。▼安政2年(1855)権平は勧農付属掛に任命され、文久3年(1863)には前橋藩向領糸商人仲間の一人として生糸取引を営んでいる。▼また明治維新後は、大区長・県会議員をつとめている。▼なお、権平の妹は前橋本町の勝山源三郎と結婚した(勝山敏子家文書 PF1901 No.18/3805)。
伝来 1994年群馬県立文書館にて撮影
数量 410
年代 文化10年(1813)~天保10年(1839)
構造と内容 本文書は、ほとんどが「覚」「通達」「書簡類」であるが、向領村々の役人肝煎の名前や村議定、村々の出来事などを記した「掌中記」(文政5・6・7年、天保8年)などがある。▼なお、ここに撮影した文書は、当館に寄贈された住谷家文書(請求番号P9108)の一部(勧農掛に関係する文書のみ)であり、そのほかの住谷家文書は原文書での閲覧となる。
検索手段 群馬郡群馬町住谷修家文書目録、インターネット検索目録
関連資料 住谷修家文書(P9108)。(参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など)
利用上の留意点 本マイクロ資料は、原本である住谷修家文書(P9108)のマイクロ閲覧部分に該当。▼「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の取扱いに関する要綱」第5条(利用の制限)及び「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の閲覧制限基準」第2(非閲覧文書の指定事項)により閲覧が制限されている文書は本目録から除外した。
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