資料区分 マイクロ
請求番号 PF9801
文書群名 東京都千代田区吉田允俊家文書(橘守部関係資料)
伝存地 東京都・桐生市本町
出所 桐生市桐生新町 吉田家
地名 上野国山田郡桐生新町/岩鼻県山田郡桐生新町(明治元年)/栃木県山田郡桐生新町(明治六年)/群馬県山田郡桐生新町(明治九年)/群馬県山田郡桐生町大字桐生新町(明治二二年)/群馬県山田郡桐生町大字桐生(大正六年)/群馬県桐生市大字桐生(大正一〇年)/群馬県桐生市本町(昭和四年~現在)
旧支配 館林藩領/幕府領/旗本神尾氏領/出羽松山藩領
歴史 吉田家は、江戸時代前期に下野国安蘇郡飛駒村(栃木県田沼町)から桐生新町へ移住し、荒物渡世を営む商人となった嘉兵衛を祖とする。絹買い、質屋などを行い一時豪商となったが、寛政3年(1791)安兵衛英信の代に家産をなくしてしまった。その後、安兵衛の子清助は文政3年(1820)桐生で機屋を開業し、好景気による消費需要増大と経営努力(御召縮緬などの新規織物の発明など)により吉田家を桐生有数の機屋としていった。なお清助は、秋主の号を持つ文人でもあり、江戸の国学者橘守部の門人兼後援者でもあった。清助のあと清蔵は、明治30年代後半桐生町収入役をつとめるなど、桐生町の発展に力を尽くした。 なお、清助が支援した橘守部は、江戸時代独学で国学を修め、天保期には平田篤胤らとともに国学の四大家に数えられた国学者である。その学説は、当時の国学界の主流である本居宣長の学説に批判的な立場をとっていたが、武蔵・上野などの豪農や機業家などの民間有力者に多くの門人をもっていた。桐生新町で機屋を経営していた吉田家も、橘守部の門人兼後援者の一人であったが、吉田家の二人の子供たちは江戸の守部のもとへ遊学に出されており、吉田家と守部との関係は単なる後援者以上のものであったと思われる。
伝来 1998年群馬県立文書館にて撮影
数量 2372
年代 天明8年(1788)年~平成5年(1993)
構造と内容 本文書は、桐生市吉田家文書のうち、橘守部の著作(自筆本・出版本・写本を含む)と守部から吉田家へ宛てた書状類(吉田家の家族間の書状などを含む)などである。主な文書は、天保9年(1838)年「下蔭集」、天保6年(1835)「助辞本義一覧」、天保2年(1831)「山彦冊子」、文政2年(1819)「長歌撰格」、明治19年(1886)「文章撰格」、和歌や俳句が書かれた短冊、「桐生新町絵図面」などがある。
検索手段 東京都千代田区吉田允俊家文書(橘守部関係資料)目録、インターネット検索目録
関連資料 当館収蔵資料に、原本として「吉田允俊家文書」(P9301)、県史複製資料として「吉田幌家文書」(HTI-1近世)。▼ほかに桐生市立図書館所蔵「桐生市本町四丁目吉田家文書」(同家の寄贈資料、県史複製資料としてH2-12-1(6)近世・H2-12-1(2)近現)。同当館収蔵マイクロフィルム収集文書「桐生市本町四丁目吉田家文書」(PF9804)。同目録『桐生市村岡家・吉田家外諸家文書目録』(当館請求番号B 930015ほか)等。▼(参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など)
利用上の留意点 本マイクロ資料は、原本である吉田允俊家文書(P9301)のマイクロ閲覧部分(橘守部関係資料)に該当。「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の取扱いに関する要綱」第5条(利用の制限)及び「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の閲覧制限基準」第2(非閲覧文書の指定事項)により閲覧が制限されている文書は本目録から除外した。
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