資料区分 古文書
請求番号 P1101
文書群名 須永守家文書
伝存地 太田市成塚町
出所 太田市成塚町 須永守家
地名 江戸時代初期 新田郡成塚村/明治22年(1889) 新田郡強戸村成塚/昭和32年(1957) 太田市成塚町
旧支配 近世初め幕府領/貞享元年(1684)旗本小野氏領/宝永2年(1705)幕府領/同4年旗本内藤氏・向井氏の相給/幕末の改革組合村は本町村寄場組合に所属/明治元年(1868)岩鼻県/同4年栃木県/同9年第二次群馬県に所属
役職等 大正・昭和期の当主であった須永好(1894~1946)は、日本の農民運動家。日本三大小作争議の一つとして有名な「強戸争議」を主導した人物。▼元衆議院議員(社会大衆党など)。戦後の日本農民組合の初代組合長。
歴史 須永好は、太田中学(現県立太田高等学校)中退後、農業に従事。▼1920年、近隣の強戸村で小作人組合(農民組合)を結成し、小作争議を指導。1922年~1924年にかけて、組合側議員が農会・村議会の多数派を形成し、組合側から村長をも送り出した「無産強戸村」の成立に尽力した。▼1937年、総選挙に社会大衆党公認で立候補し当選。1942年、翼賛選挙に非推薦で立候補し落選。▼終戦後の1945年、日本社会党の結成に参加し、中央執行委員に就任。日本農民組合の初代組合長に就任。▼ 1946年、総選挙で国政に復帰(日本社会党)。議員在職中に急死。▼好の息子(三男、菅塩に分家)の須永城次(しろじ)は、太田市議会議員を歴任。▼孫(城次の長男)の須永徹(とおる、1950~1991)は、1990年総選挙において日本社会党公認で立候補し当選したが、翌年在職中に急死。
数量 967
年代 大正8年(1919)6月~昭和20年(1945)5月
構造と内容 須永好が、社会大衆党所属で衆議院議員在任中(1937年~1942年)に入手した帝国議会議事録類(№2531~№2611)、同時期の外務省・内務省・大蔵省・司法省・文部省等所管の歳入歳出予定計算書類(№2614~№2659)などが多数含まれている。▼雑誌では、『改造』(1925年2月~1942年12月、73点)『週報』(内閣情報部編輯、1938年1月~1942年4月、94点)、『北支那』(1937年12月~1944年3月、61点)、『写真週報』(1938年2月~1945年7月、195点)、『エコノミスト』(1941年8月~1943年1月、60点)、『経済毎日』(1937年12月~1944年3月、50点)などがある。▼年鑑類には、『国民年鑑』『労働年鑑』『日本農業年鑑』『北支那経済年鑑』『大日本帝国統計年鑑』などがある。▼また、『社會問題研究』『社會主義研究』『マルクス主義』『農村』『社会問題講座』『社会思想』『社会政策時報』『解放』『プロレタリア科学』などの社会科学系雑誌も多く含まれている。▼ 『群馬戦線』(№3401-1)には、須永好が「反動に処する態度」を寄稿している。
検索手段 須永守家文書目録、インターネット検索目録
関連資料 『須永好日記』(須永好日記刊行委員会編、光風社書店、1968年)
利用上の留意点 比較的重い史・資料が含まれているので、取扱注意。
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