資料区分 古文書
請求番号 P01111
文書群名 山高幾之丞関係文書
伝存地
出所 山高家 ※「伝来」参照
役職等 三重県師範学校三等教諭兼三重県津中学校三等教諭(明治17年8月、満20歳)、▼三重県尋常師範学校教諭(明治21年4月、満24歳)、▼三重県尋常師範学校附属小学校主事(明治25年5月、満28歳)、▼三重県尋常師範学校教諭(明治28年1月、満30歳)、▼三重県師範学校校長(明治32年6月、満35歳)、▼群馬県女子師範学校長(明治35年2月、満38歳)
歴史 山高幾之丞は、元治元(1864)年2月、紀伊国和歌山に生まれた。明治17(1884)年8月、三重県師範学校三等教諭兼三重県津中学校三等教諭となった。▼ 同年10月、三重県学校教育講習委員、翌明治18年6月、学事取調委員を申し付けられた。明治21年4月、三重県尋常師範学校教諭となり、同年10月、第4回小学校教員学力検定委員を命じられた。▼ 明治25年4月、小学校教員検定委員、同年5月、三重県尋常師範学校附属小学校主事を命じられた。▼ その後、小学校図書審査委員(明治26年10月)、小学校教員銓衡委員(同年12月)、滋賀県出張(明治27年9月)などを命じられ務めた。明治28年1月、三重県尋常師範学校教諭となった。▼ 明治30年2月、校長欠員中校長事務取扱を命じられ、明治32年6月、満35歳で三重県師範学校校長となった。その後、幾多の委員を務め、明治35年2月、満38歳で群馬県前橋市の群馬県女子師範学校初代校長に転じた。明治41年4月、同地において満44歳で死去した。▼ なお、幾之丞の次女・山高しげり(金子しげり)は、日本のフェミニスト・政治家として有名である。婦人参政権獲得期成同盟会の創設に加わり、全国地域婦人団体連絡協議会の初代理事長となった。その後、参議院議員(無所属⇒第二院クラブ所属)も務めた。
伝来 山高家から送られてきた文書を所澤潤氏(群馬大学名誉教授)が当館へ寄贈(平成24年3月)
数量 264
年代 明治11(1878)年11月5日~大正6(1917)年2月14日
構造と内容 文書群のほとんどが、明治期のものである。▼ 構造・内容については、①日記・日誌類(№1-1~№1-10)、②辞令・賞与・委嘱状・寄付礼状など(№2-1~№2-129)、③履歴書類(№3-1~№3-5)、④寄付感謝状・推薦状類(№4-1~№4-13)、⑤書状類(№5-1~№5-4)、⑥封筒類(№6-1~№6-20)、⑦メモ・雑記類(№7-1~№7-6)、⑧幾之丞試験答案(№8-1~№8-39)、⑨領収証・受取証・会員証類(№9-1~№9-5-7)、⑩写真類(№10-1~№10-4)、⑪版本類(№11-1、№11-2)、⑫幾之丞葬儀時の香奠帳・弔辞類(№12-1~№12-13)、⑬手習い本・折本類(№13-1~№13-4)となっている。▼ このうち日記・日誌類の11点は、№1-1~№1-7が三重県在住時、№1-8~№1-11が群馬県在住時のものである。▼ なお、幾之丞が群馬県女子師範学校長時代の校医・萩原密蔵は、詩人・萩原朔太郎の実父である。
検索手段 山高幾之丞関係文書目録、インターネット検索目録
利用上の留意点 「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の取扱いに関する要綱」第5条(利用の制限)及び「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の閲覧制限基準」第2(非閲覧文書の指定事項)により閲覧が制限されている文書は本目録から除外した。
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