資料区分 古文書
請求番号 P2002
文書群名 大笹区有文書
伝存地 吾妻郡嬬恋村
出所 吾妻郡嬬恋村 大笹地区
地名 吾妻郡大笹村(近世)/吾妻郡嬬恋村大字大笹(明治22年~現在)▼田代村は元当村の枝村であったとされる(「上野国郡村誌」)。
旧支配 沼田藩領(近世初期~)/幕府領(天和2年・1682~)/岩鼻県(明治元年・1868~)/第一次群馬県(明治4年~)/熊谷県(明治6年~)/第二次群馬県(明治9年~)
役職等 区有文書につき省略
歴史 大笹村の石高は、「寛文郷帳」146石余のうち田方3石余・畑方142石余、寛文2年(1662)の真田氏の検地で824石(『吾妻郡誌』)と打ち出されたが、貞享2年(1685)の幕命「お助け検地」で178石余、「元禄郷帳」178石余、「天保郷帳」216石余、「旧高旧領取調帳」217石余。▼当村を通る街道は、戦国期から近世初頭において信州上田の真田氏が本城上田と沼田を結ぶ軍事道路として重要な道筋であり、慶安3年(1650)以降は信州仁礼から鳥井峠・大笹・高崎を結ぶ北国街道の脇往還として幕府から公認された道であった。▼当村は、大戸から高崎へ抜ける大戸通りと沓掛へ向かう大笹通りの分岐点にあり、宿場として栄えた。▼寛文2年から明治2年(1869)まで関所が設置された。設置場所は、宿の西側を流れる鹿の籠川右岸で、川には刎ね橋が架けられた。▼当村を通過する荷駄は、信州からの年貢米をはじめ穀類・木綿・反物・煙草などの物資・日用品が多く、六斎市が開かれた。草津温泉への湯治客や信州の善光寺詣りをする人々の往来も多かった。享保年間(1716~1736)頃には、中馬稼ぎが盛んになった。▼黒岩長左衛門は、元和年間(1615~1624)頃に宿場作りを行い、以後代々問屋を営み、名主・関所世話役などを務めた。天明3年(1783)の浅間山大噴火の際、熱湯になった湧水を宿に引湯して大笹温泉をつくり再興をはかった。また、被害の大きかった鎌原村を救済するため尽力した。
伝来 吾妻郡嬬恋村大笹地区に伝来。
数量 1
年代 寛文2年(1662)~貞享2年(1685)
構造と内容 当文書群は、寛文検地の結果を反映した大笹村・田代村の村高、当時の字名等が記載された絵図1点である(〔大笹村・田代村絵図〕)。▼絵図記載内容について、両村の石高と字名は、次の通りである。「大笹村 高824石7斗2升5合、田代村 高85石6斗9合、東西南北、浅間が嶽、はなまがり山、三尾山、かごのとう山、吾妻屋嶽、水の戸、切丸峠、志ぶの沢 但し大前村との境、大堀沢、志ゝのろう川、大沢、湯しり川、鳥居川 但し吾妻川出口、馬あらい川、大前村への道、鎌原村への道、信州沓掛への海道、信州上田への海道、信州仁礼への海道、干俣村への道、大笹村、御関所、上の原、諸志こ、そつとう原、いけの頭、中の入、志子の嶋、池、ふきあげの原、砂塚、たつもう原、(かざわ)の湯、湯志里、くゞり木、田代村、上州鳥居木、信州鳥居木、大笹村分、です、屋敷うら、治郎平畠、たきわき、永井、古屋敷、山道、まつちや入、小池、京塚、桒の木原、から松、あ(わ)ミ場、小藤内、ふじうち、大笹村の内砂井新田、信濃国境」など。▼絵図の差し出し部分については、「大笹村絵図 名主 長左衛門、組頭 仁兵衛・同 佐大夫・同 弥次右衛門・同 兵右衛門・同 七左衛門・同 源兵衛・同 善兵衛、田代村絵図 名主 長左衛門、組頭 権左衛門・同 九右衛門」と記されている。両村の名主名が同じ「長左衛門」であることから、当時両村の名主は(黒岩)長左衛門家の兼務(兼帯名主)であったと思われる。▼縦1429㎜×横7870㎜(原本絵図部分)、彩色有、裏打ち有、破損大の部分有。▼寛文2年(1662)「寛文検地」~貞享2年(1685)「貞享検地」の間、または貞享元年(1684)検地開始の際にあらかじめ村方から提出された絵図の写し(村方手控え図)。
検索手段 大笹区有文書目録、インターネット検索目録
関連資料 特になし
利用上の留意点 大型のため、閲覧室の絵図専用机で閲覧してください。
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