資料区分 古文書
請求番号 P1402
文書群名 櫻井保広家文書
伝存地 安中市原市
出所 安中市 櫻井保広家
地名 上野国碓氷郡原市村(近世~)/安中県碓氷郡原市村(明治4年・1871年7月)/群馬県碓氷郡原市村(明治4年・1871年10月~)/熊谷県碓氷郡原市村(明治6年~)/群馬県碓氷郡原市村(明治9年~)/碓氷郡原市町大字原市(明治22年~)/碓氷郡安中町大字原市(昭和30年・1955年~)/安中市原市(昭和33年・1958年~現在)
旧支配 安中藩領(慶長年間~)/安中県(明治4年・1871年7月~)/第一次群馬県(明治4年・1871年10月~)/熊谷県(明治6年・1873年~)/第二次群馬県(明治9年・1876年~現在)
役職等 ①櫻井八十七-:原市村副戸長、原市村戸長、原市小学校事務掛兼戸長、保護役、衛生会員、聯合邨会議員、学務委員学校資金掛総代、原市村共有財産管理人、原市共有金世話掛、地主旧碓氷資本会社事務委員、学区会議員、原市邨担当人(地租改正)、株式会社原市銀行 監査役、五郡聯合町村会議員、万福寺世話人、万福寺総代人会計主任、原市町会議員、榎下神社総代、神社氏子総代下町会計主任、東九十九組副組長、原市校保護役                                                                            ②櫻井幹-:原市町長、日本赤十字社群馬支部原市町分区委員、碓氷郡所得調査委員、農会長、碓氷社原一組組合員、西毛電気株式会社 創立委員、株式会社原市銀行取締役、県会議員、原市町尚武会長
歴史 近世の村高は、「寛文郷帳」829石余のうち田方225石余・畑方603石余、「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領取調帳」ともに856石余。当村は、宝永7年(1710)より中山道松井田宿の定助郷を勤めた。明和7年(1770)の村書上帳(櫻井家文書)によると、家数200・人数1,109、馬40。慶応3年(1867)の村明細帳(仁井家文書)によると、家数258・人数1,043(男542・女501)。幕末の改革組合村高帳では、安中宿寄場組合に属し、高829石余、家数234とある。名主は、磯貝(五十貝)家が世襲した。▼鎮守は、榎下神社。寺院は、曹洞宗久昌寺、真言宗万福寺、同真光寺、同観乗院、同長泉寺の5か寺があったが、このうち長泉寺は明治4年(1871)廃寺となった。万福寺は、「旧高旧領取調帳」によると寺領27石があった。真光寺境内には時の鐘(市重文)がある。地内中山道沿いに安中原市の杉並木がある。▼明治6年(1873)、真光寺を仮用として原市小学校を開設した。「上野国郡村誌」によると、生徒数は男78・女21。同11年、組合製糸の碓氷社が設立され、生糸の改良と販売を行った。明治13年の組合員数は、339人。この他、碓氷共立商店などの金融機関も設立され、安中旧宿と対抗する経済上の地位を築いていった(『安中市誌』)。同7年、米国から帰国した新島襄は、地内にもキリスト教を布教し、同18年原市教会が創設された。同19年には信徒で県会議員であった宮口二郎により碓氷英学校が設立された。▼明治26年、第七生産会社を前身とする原市銀行、同33年に碓氷倉庫会社が設立され、倉庫業務と生繭乾燥を行っていた。碓氷社は、明治末年には組合員数180、6県下に及び、原市町も碓氷社とともに発展したが、昭和12年(1937)本社を高崎に移転後、同所は原市工場となり、昭和30年に業務を縮小し群馬蚕糸製造となり、同町の衰退につながった。
伝来 櫻井家に伝来。近世文書は原市村名主を務めた五十貝家(磯貝家)から戸長役場時代に引き継いだとされる。
数量 6396
年代 慶長6年(1601)~平成8年(1996)
構造と内容 近世期文書569点(公開分約20.0%)、明治期文書2,244点(同約79.1%)、近代文書〔明治期~大正期と思われる文書〕5点(同約0.2%)、大正期文書8点(同約0.3%)、昭和期文書9点(同約0.3%)、平成期文書・年次不詳文書計2点(同約0.1%)からなる。▼近世初期の文書には、慶長6年(1601)の原市村・郷原村・横川村などの御縄打水帳29点、寛文4年(1664)の原市村検地水帳21点などがある。原市村田畑水帳は、元文2年(1737)~安政4年(1857)のものが17点ある。▼年貢割付状は、寛文10年(1670)~明治元年(1868)のものが30点ある。御取箇帳類は、宝暦5年(1755)~宝暦7年、慶応3年(1867)のものが6点ある。▼天保10年(1841)以降の松井田宿助郷関係文書は、19点ほどある。▼近世期の原市村などの絵図類は、15点ほどある。▼なお、当文書群に含まれている近世期文書の多くは、当時名主役を務めた五十貝(磯貝)家文書が明治期に戸長を務めた櫻井家(戸長役場)へ移管されたと伝わる。▼地租改正関係文書は、43点ほどある。▼明治6年(1873)9月以降の原市学校・原市小学校等の学校関係文書は、351点ほどあり極めて豊富である。これらは、地租改正や小学校設立などに櫻井家当主の八十七が原市村戸長として深く関わり、その中心的な存在であったことによる。また、明治7年11月の楫取令公(群馬県令楫取素彦)原市小学校御巡校関係文書は7点ほど、明治9年11月の天皇巡幸関係の文書は6点ほどある。▼生糸関係文書は29点、碓氷社関係の文書は11点ある。櫻井家は、近世期より質屋を営んでいたようであるが、明治17年5月、碓氷郡長宛に「質商廃業御届」(№1487)を提出し廃業した。▼榎下社(榎下神社)の関係文書は、57点ほどある。明治期の当主八十七は、氏子惣代を務めた。▼明治期の絵図類は、53点ほどある。このうち、耕地絵図は24点(約45.3%)である。▼【第2次公開(No.2474~)】近世期文書634点(第二次公開分約17.8%)、明治期文書2,307点(同約64.81%)、近代文書〔明治期~大正期と思われる文書〕49点(同約1.4%)、大正期文書504点(同約14.2%)、昭和期文書65点(同約1.8%)からなる。▼近世期の文書のうち、村況関係では「〔原市村・高別当村・八本木村明細帳〕」(延享3年、№3191)があり、村高をはじめ、家数、助郷人馬数、村内寺社などの記述がある。安政期の組ごとの「田畠水帳写」が多く残る。▼中山道関係では、「往還通下調帳」(天保13年、№3138)がある。また、「寿明君様御下向ニ付 御迎御用人馬賃割帳」(嘉永2年、№3122)、慶応4年の助郷関係覚書などもある。▼満福寺(萬福寺)関係の文書が24点ある。このうち半分の12点は、時の将軍の朱印状写しである。なお、当文書群に含まれている近世期文書の多くは、当時名主役を務めた五十貝(磯貝)家文書が明治期に戸長を務めた櫻井家(戸長役場)へ移管されたものと伝わる。▼富岡製糸場開場の翌年、明治6年10月の「製糸場道開補人足帳」関係の文書が3点ある(№3124、№3125、№3131)。明治8年から同12年にかけての地租改正関係文書が24点ほどある。▼明治11年9月の天皇巡幸関係文書は、同年6月から翌12年8月までの91点余りがあり(第一次公開分は6点)、「御巡幸ニ付松井田駅御泊夜具貸渡簿」(明治11年9月、№2585)、「御巡幸諸傭賃金割渡帳」(同、№2584)、「御巡幸御用品払物帳」(同、№2562)などがある。また、明治28年~同29年の「耕地小作之証」が14点ある。▼明治期満福寺関係の文書が105点ほどあり、什物帳などが含まれている。原市村の他の寺社も含んだ「〔原市村内社寺境内図面綴〕」(№3225)などもある。書画は、57点を公開した。▼大正元年の明治天皇大喪関係文書(写真含む)が8点あり、そのうち「大正二年度農産物成績表」は、当時の原市地域の農産物の種類・生産数量・売上価格などがわかる史料である。大正8年~同9年の宝生流能楽「宝生正本」が37点あり、昭和戦後期にも宝生流能楽関係の文書が多く含まれている。
検索手段 櫻井保広家文書、インターネット検索目録
関連資料 国文学研究資料館所蔵「上野国碓氷郡原市村磯貝家文書」など。(参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など)
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