資料区分 マイクロ
請求番号 PF9208
文書群名 旧多胡村役場文書
伝存地 高崎市(旧・多野郡吉井町)
出所 高崎市(旧・多野郡吉井町) 旧多胡村役場
地名 多胡郡大沢村・東谷村・塩村・神保村・高村・多胡村(近世)/多胡郡多胡村(明治22年~、近世の村名は大字となる)/多野郡多胡村(明治29年~)/多野郡吉井町(昭和30年~)/高崎市吉井町(平成21年~)
旧支配 〔全体〕吉井藩領(天正18年~、菅沼氏)を経て幕府領・旗本領・御三卿清水家領等(近世)/岩鼻県(明治元年~)/第一次群馬県(明治4年~)/熊谷県(明治6年~)/第二次群馬県(明治9年~)▼〔大沢〕〔東谷〕吉井藩領(天正18年~)/幕府領/御三卿清水家領(文政7年~)/幕府領(安政4年~)後略▼〔塩〕吉井藩領(天正18年~)/幕府領(慶長15年~)/旗本倉橋領(寛永2年~)/幕府領と旗本溝口領(天和3年~)/うち旗本溝口領352石余りは幕末まで/残りの幕府領121石余りは御三卿清水家領(文政7年~)を経て幕府領(安政4年~)後略▼〔神保〕吉井藩領(天正18年~)/幕府領(慶長15年~)/旗本倉橋領(寛永年間)/幕府領(寛文4年~)/旗本溝口領(貞享元年~)後略▼〔高〕吉井藩領(天正18年~)/幕府領/御三卿清水家領(文政7年~)/幕府領(安政4年~)後略▼〔多胡〕吉井藩領(天正18年~)/幕府領(慶長15年~)/幕府領と旗本領(門奈・川村・野呂氏)の相給/幕府領が御三卿清水家領(文政7年~)/一村が幕府領(安政4年~)後略
役職等 0
歴史 多胡地区は高崎市の南部にあり、鏑川の支流大沢川(元禄15年上野国絵図にも記載の川)が流れる。南に藤岡市日野地区と接する関東山地の大沢山(標高約700m)がそびえる。▼「山峡の僻村にして(略)人口1960人、主として養蚕を営み、食糧の収穫は僅かに米935石(後略)」(昭和7年「政府米特別払下申請書」No.54-55/145-4)。▼多胡の地名は郡名、高は地形、神保は多胡郡鎮守の辛科神社(高崎市指定史跡)の神領であったこと、塩は塩分を含む泉のあることから名付けられたという。▼上流部の大沢・東谷は元は同村だったが、大沢が分離したという。▼大沢では稲作は全く行われていなかった。▼神保には前述の辛科神社、大永2年(1522)創建の公田院仁叟寺(高崎市指定重要文化財)がある。▼塩村の橋爪祇?(寛政8年生)、養子の東作(文化7年生)により、多胡地区では蚕糸業が盛んになった。▼明治11年、上流部に塩村外2ヶ村連合、下流部に神保村外2ヶ村連合があり、明治12年に多胡村とその他の村に分離。▼明治17年に塩村外5ヶ村連合、明治22年に多胡村が成立した。▼製糸所を有した多胡生産組合は大正8年に解散、甘楽社井池組へ合流、井池組は組合区域を吉井町、多比良村まで広げた(No.144-1、No.144-4)。▼大澤七郎治(天保3年生、明治44年没)は明治初期に大沢村戸長、明治14年に東谷村大沢村連合戸長。▼向井周弥(橋爪祇?の孫、安政元年生、大正14年没)は塩村外5ヶ村連合戸長、初代多胡村長(大正4年退任)。県会議員等の要職を歴任する一方、多くの日記・手記を残した(後述)。▼2代目の大澤良太郎(七郎治の子、明治12年生、昭和16年在職中に死去)は昭和14年多野郡農会長も務めた。▼3代目は江原浅衛(県会議員江原文作の子、明治29年生、昭和17年退任、陸軍中尉に昇任、昭和28年没)、4代目は神保民治(組頭・村会議員を務めた文作の孫、明治24年生、昭和22年退任)、5代目は大澤要八(良太郎の子、明治38年生、昭和31年退任)である。▼本文書群は多胡小学校付近の倉庫に保管されていたため、近隣の他の役場文書と異なり、膨大な数量でまとまって残存した。
伝来 吉井町郷土資料館(現・高崎市立吉井郷土資料館)所蔵の旧多胡村役場文書の一部を、当館が撮影した。
数量 309
年代 明治6年(1873)~昭和27年(1952)
構造と内容 旧多胡村役場文書のうち、勧業・農業・養蚕関係を撮影したものである。群馬県史編さん室が調査し、県史複製資料として公開されている役場文書は数十件あるが、その後に当館がマイクロフィルム収集したものは本文書群のみである。  旧多胡村役場文書を収録した県史複製資料「吉井町郷土資料館文書」の内容は行政一般・保健衛生・教育等で勧業も含まれている。しかし、関連文書であっても、県史複製資料に収録されていながら本文書群には収録されていない文書もある(多胡村農会の創立記録、経済改良調査関係、降雨被害、小学校生徒による害虫駆除の奨励など)。  他にも、多胡村の史料が引用されている『吉井町誌』記載の大霜害・大洪水等にしても、直接関係する当時の文書は収録されていないようである。したがって、ぜひ県史複製資料やその他の資料も併せてご覧頂きたい。  本文書群は昭和27年の1点を除き、昭和19年までのもので、点数としては全体の75%以上が明治期の文書である。ただ、分量としては「勧業書類」等と題された大正9年~昭和16年の簿冊が17点、複製本で33冊あり、全体の約半分を占める。  明治17年頃までの古い文書の多くは、東谷村・大沢村連合(特に大沢村)に関するものである。多胡村初期(明治23年~26年)の文書はない。  内容は地域柄、農業が多く、その中心は養蚕・製糸・織物業である。他にも特色として、煙草栽培(吉井町に東京専売支局吉井出張所があった)、山林業、木炭生産、養豚業、コンニャク(蒟蒻)や輸出向花百合根の栽培等が挙げられよう。  甘楽社井池組、多胡村農会、養蚕実行組合、大日本蚕糸会等、各種組合・組織に関する文書も多い。  物産報告、大正3年経済改良調査、長野県からの秋蚕種共同購入(明治末から大正初期)の関係もまとまってある。  全体として種々の産業・職業に関する文書がある。戦中期の簿冊には物資の統制や、海外移住(農業移民)奨励の通知が目立つ。多胡村でも大麦や干草を供出し、後者の集荷では国民学校の生徒が動員された。  ごく少数だが、当地特産の石材、多胡石(牛伏砂岩・天引石)関係もある。  本文書群は役場文書から一部を収録したものだが、多胡地区はもちろん、かつての多野郡や群馬県の理解に役立つ貴重な資料である。
検索手段 旧多胡村役場文書目録、インターネット検索目録
関連資料 多胡村役場文書(本文書群とはほとんど異なる文書)を収録した県史複製資料「吉井町郷土資料館文書」(H42-1-1(1)近現・H42-1-1(2)近現)。▼絵図として明治6年の壬申地券地引絵図「多胡村」(A0181AMA 758、国重文)他。▼マイクロフィルム収集文書に、近代農業・勧業関係として、同じ資料館収蔵で同時期に収集した「多野郡吉井町 横尾家文書」(PF9206)・「多野郡吉井町 田村家文書」(PF9207)、多野郡の養蚕関係として高山社の「藤岡市高山 高山家文書」(PF9102)、「多野郡鬼石町 城聞家文書」(PF9101)。▼多胡地区の近代文書として、向井周弥の日記・手記類を収録した「向井周治家文書」(H42-13-1近現)、井上孝三郎・健治家の「井上いね家文書」。▼多胡地区の近世文書として、「神保金光家文書」(H42-10-1近世)、酒井忠平家の「酒井虎雄家文書」(H42-14-1近世)、大澤七郎治家の「大沢要八家文書」(H42-15-1近世)等。▼図書として『吉井町誌』『多野藤岡地方誌』『群馬県多野郡誌』『郡村誌』等。▼(参考文献として角川書店『角川日本地名大辞典 10 群馬県』、平凡社『群馬県の地名 日本歴史地名体系10』、群馬県文化事業振興会『上野国郡村誌』、丑木幸男著『上野国郷帳集成』など。)
利用上の留意点 「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の取扱いに関する要綱」第5条および「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の閲覧制限基準」第2(非閲覧文書の指定事項)により閲覧が制限されている文書は本目録から除外した。
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