資料区分 マイクロ
請求番号 PF9804
文書群名 桐生市本町四丁目吉田家文書
伝存地 桐生市本町
出所 桐生市本町 吉田允俊家(現在、原本は桐生市立図書館収蔵)
地名 上野国山田郡桐生新町/岩鼻県山田郡桐生新町(明治元年・1868年)/栃木県山田郡桐生新町(明治4年・1871年11月)/群馬県山田郡桐生新町(明治9年・1876年)/山田郡桐生町大字桐生新町(明治22年・1889年)/山田郡桐生町大字桐生(大正6年・1917年)/桐生市大字桐生(大正10年・1921年)/桐生市本町1丁目~6丁目・横山町(昭和4年・1929年~現在)
旧支配 館林藩領(近世初期)/幕府領(慶長3年・1598年)/館林藩領(寛文元年・1661年)/旗本神尾氏領(天和2年・1682)/幕府領(寛保2年・1742年)/旗本神尾氏領(宝暦12年・1762年)/出羽国松山〔松嶺〕藩領(安永8年・1779年)/岩鼻県(明治元年・1868年)/栃木県(明治4年・1871年11月)/第二次群馬県(明治9年・1876年~現在)
役職等 ○吉田清蔵(幸平)  明治15(1882)年1月、山田郡桐生新町会議員に当選。明治17年1月、同年7月同。同年10月、山田郡桐生新町外2か村聯合町村会議員に当選。同20年1月、桐生新町4丁目に鉄物店を開業。同年9月、桐生新町町会議員並びに桐生新町外2か村聯合町村会議員に当選。同31年4月、桐生北尋常小学校建築委員を嘱託される。同34年9月~同39年12月、桐生町収入役として勤務。
歴史 〔近世・桐生新町〕近世期当初は、1丁目から4丁目迄の町並みを整え、東は今泉橋(兎堰堀)で今泉村へ、西は小曽根橋(大堰堀)で本宿村へ通じた。慶長11(1606)年、下瀞堀(現新川)迄を拓き5丁目・6丁目とし、同17年新宿村から浄運寺を6丁目へ、翌18年今泉村槐原から稲荷神社を常木へ移し、近郷農民の入植を奨励した。村高は、「寛文郷帳」では新町と見え畑方306石余、「天保郷帳」321石余、「旧高旧領取調帳」324石余。文化12(1815)年の家数753・人数3,269のうち僧6・医師15・盲人4・奉公人753、馬24(宗門人別改帳)。神社は、八坂神社・母衣輪権現社。寺院は、天台宗栄昌寺・東光寺・衆生院・長福寺、浄土宗浄運寺がある。当町は谷口集落で、山地の生産品、平地からの移入物資を交易する市場町の役割りを担い、慶長年間から天満宮境内で酉の市が開かれるようになった。旧桐生領54か村は、全て谷間の山村であるため耕地が少なく、古くから農間余業として養蚕・製糸・機織りが行われていた。慶長5年の関ヶ原の戦いの時、徳川家康の軍へ旗絹を献上し(天正遺事)、それ以降小物成として旗絹2,410疋を納めた。正保3(1646)年、現物納の旗絹が金納にかわったことから、換金の必要に迫られ六斎市が立つようになった。享保8(1723)年には、白生地に吟手染めの手法を取り入れ、完成品の織物を織り出すまでに成長し、この頃から京都・大坂・江戸との取引が多くなった。同16年、大間々村の絹市と利害が対立し、桐生新町の市日が立て替えとなった。元文3(1738)年、高機の導入により、製品は平織りの白生地から斜文織りの技法となった。この技法は、複雑な準備工程を経るため、賃業者とそれを統括する元機経営者とを生み出し、やがて西陣と並ぶ有力な機業地へと発展した。高機は、隣接の足利町へ広まり、安永10(1781)年領外機取立禁止規約を結び、技術の流出を防ごうとしたが、足利は織物市開設で対抗した。桐生絹市は、急速に不振となり、天保8(1837)年絹買・織屋仲間は足利出市差し止めを議定した。この後、町内は議定を破った商人の処断をめぐる紛争、安政6(1859)年神奈川(横浜)開港による生糸輸出禁止訴訟などで紛糾した。織物業・諸産業の発達に伴い、文化人との交流も活発となった。寺子屋の普及と書物の流布により、江戸の町人文化が広まった。寺子屋は近世後期に普及し、町内に7塾があった。名主は、茂木・小林・金子・書上・新居・岩下・古木・佐羽・森口・粟田・長沢の諸家で務めた。幕末の改革組合村高帳によると、当町ほか24か村の寄場組合に属し、高321石余、家数767であった。〔近代〕「上野国郡村誌」によると、税地26町3反余のうち田2反余・畑25町4反、改正反別は田5反余・畑9反余・宅地35町5反余、家数1,046のうち社2・寺4、人数4,381、馬7、人力車29・荷車137。民業は、男が農桑業42戸・機織195・商業558戸・雑業191戸、女は男業を助け機織・裁縫5人、雑業27人。物産は、繭9石3斗・蚕種497枚・着尺地13万5,620反・帯地3万6,351条・打紐12万3,688条など。明治6(1873)年、桐生南舎開校、生徒数男67・女47、同7年桐生北舎開校、生徒数男128・女113。明治11年山田郡役所が置かれて、郡治の中心地となった。同21年、地内南部を横断して両毛鉄道が敷設され、桐生駅が開業した。同22年桐生町大字桐生新町となった。明治24年の戸数1,025、人口は男3,086・女3,303、学校1・水車場1。当初、役場は3丁目宮川料理店跡に置かれた。大正6(1917)年、山田郡桐生町大字桐生と改称。
伝来 原本は、桐生市本町「五丁目」の吉田允俊家に伝存したもの。少なくとも近現代は、本文書群の書簡類によると、吉田家本宅は五丁目に所在し、吉田家が営む鉄物店は四丁目に所在していた(現在、同家は東京都在住)。当文書群は、1975(昭和50)年に桐生市へ寄贈され、桐生市立図書館へ収蔵となり(「昭和50年11月 桐生市村岡家・吉田家外諸家文書目録」桐生市立図書館)、現在に至る。当館は、当文書群を1998年度にマイクロフィルムカメラで撮影・収集し、複製資料を作成した。リール37、焼付プリント139(分冊、製本数)。今回、契約目録作成段階で未登録であった約1,600点の書簡類等を解読・目録化し、さらに約2,400点余りの閲覧点検を実施して公開した。
数量 2329
年代 天明元(1781)年5月~昭和15(1940)年11月7日
構造と内容 近世期文書304点(約13.1%)、明治期文書2,100点(約86.5%)、大正期文書22点(約0.9%)、昭和期文書3点(約0.1%)からなる。▼近世期の文書は、質屋関係の文書が多数ある。「定(領主より質渡世へ仰せ付けの条々堅く相守り、質物両判之れ取り申すべき事)」(№61、天明元年5月)、「御領分上州山田郡桐生新町質屋渡世者共(質屋営業開始年・店主名等の書上、三郎右衛門ら8名)」(№136、天保2年)、「質物利息表(初年、2か年目~10か年目)」(№67、嘉永2年正月)などがある。「織屋仲間印鑑(文政7年甲申年2月発行)」(№92、文政7年2月)などの織屋関係文書が7点ある。また、「初宮参り祝納帳(吉田ふで女、鯵の干物 吉田嘉兵衛様、白砂糖 吉田市兵衛様、白砂糖 裏の隠居、白砂糖 なべや、白砂糖 かまや、他)」(№、588-5-3、嘉永7年8月)、「ふで女帯とき・その女髪おき 祝品受納扣(金100疋 今泉定右衛門、20疋 扇子 今泉吉右衛門、扇子・帯締め 神山傳之助、他)」(№588-5-1、万延元年11月)、「冨女髪置祝赤飯配重帳(赤飯配重方、金100疋・扇子 吉田安兵衛、子供足袋・上扇子 吉田嘉兵衛、同 吉田市兵衛、子供足袋・扇子 吉田友蔵、金100疋・扇子 神山傳之助、他)」(慶応元年11月、№589-2-2)などの家族の祝儀・祝い事関係の記録類も多数含まれている。▼明治期の文書について、明治初期には「上野国山田郡桐生産織物相場書上(上州山田郡桐生新町並びに最寄村々織物機員並びに年々相場、紗綾、他)」(№411、明治5年)、「質稼御免許御鑑礼願(私共、先般旧岩鼻県庁へ願い免許の上、従来質渡世罷り在り、改め当県庁の免許・鑑札頂戴、営業仕りたく、出格の御仁恤を以て右願いの通り御聞き済み、質渡世御免許・御鑑札御下げ渡し成し下し置かれたく願い上げ)」(№74、明治7年)などがある。明治期の書簡類は、約1,277点あり(文書群全体の約52.6%)、主に家族・親族間のやりとりである。特に、吉田家は、旧伊勢崎藩士・士族、群馬県会議員(初代県会議長)・実業家として著名な宮崎有敬の親戚筋に当たり、同人の晩年、入院・臨終の際のやりとりが詳細に記されていて注目される。
検索手段 桐生市本町四丁目吉田家文書、インターネット検索目録
関連資料 ①当館寄託古文書 P9301 桐生市本町 吉田允俊家文書 2,588点公開済み、②当館収蔵マイクロフィルム収集文書 PF9801 東京都千代田区 吉田允俊家文書(橘守部関係資料) 2,372点公開済み、参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、]『上野国郡村誌』など
利用上の留意点 「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の取扱いに関する要綱」第5条および「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の閲覧制限基準」第2項(非閲覧文書の指定事項)により閲覧が制限されている文書は、本目録から除外した。
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