資料区分 |
古文書 |
請求番号 |
P0306 |
文書群名 |
徳田健一家文書 |
伝存地 |
群馬県 |
出所 |
高崎市木部町 萩原勇次宅(吉井藩18か村肝煎名主)、他(安中市松井田町 徳田健一宅) |
地名 |
上野国緑野郡木部村/岩鼻県緑野郡木部村(明治元年・1868年)/群馬県緑野郡木部村(明治4年11月)/熊谷県緑野郡木部村(明治6年)/群馬県緑野郡木部村(明治9年)/群馬県緑野郡八幡村大字木部(明治22年)/群馬県多野郡八幡村大字木部(明治29年)/群馬県高崎市木部町(昭和31年・1956年~現在) |
旧支配 |
旗本諏訪氏領・同志賀氏領・同久保氏領の3給(近世初期)/吉井藩領・旗本伊東氏領の2給(元禄11年・1698年)/吉井藩領・旗本両伊藤氏領の3給(享保19年・1734年)/岩鼻県(明治元年・1868年)/第一次群馬県(明治4年・1871年11月)/熊谷県(明治6年・1873年)/第二次群馬県(明治9年・1876年~現在) |
役職等 |
○文書出所の木部村萩原家当主は、近世期、吉井藩18か村の肝煎名主を務めた。明治・大正・昭和期の萩原家当主は、萩原丑太郎。多野郡八幡村長(明治43年~大正4年)・多野郡教育会評議員などを務めた。 |
歴史 |
【近世 緑野郡木部村】村高は、「寛文郷帳」で1,016石余のうち、田方634石余・畑方382石余、「元禄郷帳」「天保郷帳」とも1,125石余、「旧高旧領取調帳」は1,122石余。慶安2(1649)年の「上州七郡村々石高写」(『多野藤岡地方史』)では、村高1,016石余。当該文書群の近世貢租関係文書の村高記載は、そのほとんどが「551石3斗4升8合」である。この石高は、出所の萩原家(伝兵衛)が吉井藩領の肝煎名主を務めていたことから、木部村石高のうちの旗本領を除いた吉井藩領分の石高と考えられる。▲助郷は、近世を通じ中山道倉賀野宿へ出役、定助郷15か村の一つとなっていた。古来、鏑川の乱流による水害に悩まされ、干ばつにも悩まされた。▲神社は、八幡社で、祭神は応神天皇、祭日は9月9日。寺院は、心洞寺・安楽寺。心洞寺は、字田沼にあり、曹洞宗竜谷山金清院と号す。本尊は釈迦如来で、天正年間に木部駿河守の懇請により山名村の金清寺平から移したと伝わる。文政年間に堂宇を焼失し、山門は元文5(1740)年建立のものとされる(『多野郡誌』)。「旧高旧領取調帳」によると、寺領10石余。『多野郡誌』では15石余。安楽寺は、字勝羽にあり、真言宗山名山と号す。元は山名村字山ノ上にあった山名氏の菩提寺を後に現在地へ移したものとされる。「旧高旧領取調帳」では、寺領10石。字新宿の観音堂は、安楽寺持ちで、墓地に「お染久松」のお染の墓と称するものがあり、耳疾に効果があるとして参詣する者があるという(『多野郡誌』)。▲幕末の改革組合村高帳では、倉賀野宿寄場組合に属し、寺領を除き1,104石余、家数86軒。 【近代 緑野郡木部村、緑野郡・多野郡八幡村大字木部】明治7(1874)年山名村と連合して八幡小学校を開校、当村の安楽寺と山名村の光台寺を隔年で校舎にあてた(『高崎市教育史』)。明治24年の戸数104軒、人口は男283人・女283人、馬20匹、寺院2、水車場1。明治43年の大洪水では、地内のほぼ全域で大きな被害を受けた。この時、鏑川広瀬堰の取水口が破損し使用不能となったので、大正5(1916)年、八幡村耕地整理組合により揚水ポンプが設置され、同7年に地内の耕地整理が完成した。昭和10(1935)年・昭和22年の洪水でも大きな被害を受けた。昭和30年の世帯数は114軒、人口671人。翌昭和31年、高崎市に合併し同市木部町となった。 |
伝来 |
高崎市木部町 萩原勇次宅(吉井藩18か村肝煎名主家)及び安中市松井田町 徳田健一宅に伝来したものと思われる。文書所蔵者死去につき、詳細は不明。 |
数量 |
217 |
年代 |
寛文5(1665)年7月11日~昭和47(1972)年11月23日 |
構造と内容 |
近世期文書162点(約74.6%)、明治期文書10点(約4.6%)、近代文書5点(約2.3%)、大正期文書34点(約15.7%)、昭和期文書6点(約2.8%)からなる。▼近世期の文書は、貢租関係文書が多数ある(162点中140点=86.4%)。具体的には、物成割付状77点(延宝4年~文久元年)、夫米割付証文46点(延宝6年~天明2年)、年貢皆済目録・覚13点(宝暦3年~天保15年)などである。貢租関係以外では、出入・訴訟関係文書が9点ある。▼明治期以降の文書は、55点(25.4%)である。このうち、近代郡・村行政関係文書が40点ある。この時期の萩原家当主の丑太郎が、多野郡八幡村長、多野郡教育会評議員などを務めたためと考えられる。また、耕地整理産業組合(№184)、多野郡産牛馬組合(糶市、№191、№197-1)などの文書も特徴的であり注目される。▲昭和47(1972)年の学制発布100年記念関係文書は、徳田健一氏のものと思われる。 |
検索手段 |
徳田健一家文書、インターネット検索目録 |
関連資料 |
①当館寄託 P8216「高崎市根小屋区有文書」1,402点、②当館寄託 P9311「高崎市石原町 片山紀道家文書」2,626点、③当館マイクロ収集文書 PF9206「多野郡吉井町 横尾家文書」78点、④同 PF9207 「多野郡吉井町 田村家文書」 207点など。▼参考文献:『角川日本地名大辞典』10 群馬県、『上野国郡村誌』など。 |
利用上の留意点 |
「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の取扱いに関する要綱」第5条および「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の閲覧制限基準」第2項(非閲覧文書の指定事項)により閲覧が制限されている文書は、本目録から除外した。 |