| 資料区分 | 古文書 | 
| 請求番号 | P9602 | 
| 文書群名 | 下城株式会社文書 | 
| 伝存地 | 伊勢崎市曲輪町 | 
| 出所 | 伊勢崎市曲輪町 下城株式会社 | 
| 地名 | 上野国佐位郡伊勢崎町(近世~)/群馬県佐位郡伊勢崎町(第一次、明治4年・1871年10月~)/熊谷県佐位郡伊勢崎町(明治6年~)/群馬県佐位郡伊勢崎町(第二次、明治9年~)/群馬県佐波郡伊勢崎町(明治29年~)/群馬県伊勢崎市(昭和15年・1940年~現在) | 
| 旧支配 | 伊勢崎藩(慶長6年・1601年~)/伊勢崎県(明治4年・1871年7月~)/第一次群馬県(明治4年・1871年10月~)/熊谷県(明治6年・1873年~)/第二次群馬県(明治9年・1876年~現在) | 
| 役職等 | ①下城弥一郎(彌一郎、1853~1905)=明治14年(1881)2月・伊勢崎太織会社設立(取締)、明治18年10月・伊勢崎太織の染色規則を作成、明治19年6月・六斎市から独立した太織・生糸・繭の取引を目的とする市場を開設、同年9月・染色講習所を開設、明治20年5月・前橋市の第三十九国立銀行出張所を伊勢崎町に開設させる、明治21年5月・南勢多郡原之郷(現前橋市富士見町原之郷)に上毛撚糸会社を設立し社長に就任する、明治24年3月・織物組合事務所及び講習所を新築、明治25年・緑綬褒章を受ける、明治27年・群馬県会議員に当選する、明治29年11月・下城支店買継部を伊勢崎町に開く、明治30年・群馬県会議員に初当選、明治32年・再度群馬県会議員に当選し議長に就任、明治33年3月・株式会社群馬商業銀行を設立、明治38年12月死去 ②下城好雄=弥一郎の次男、明治29年・下城支店買継部を開設し責任者に就任 ③下城雄索(1910~)=昭和10年(1935)・下城毛織物工業を創設、伊勢崎毛織物協同組合副理事長、関東毛織工業組合理事などを歴任、昭和22年より伊勢崎市議会議員を2期務め、副議長・議長を経て昭和30年に一度政界を引退。昭和45年5月・伊勢崎市長に初当選、以後4期連続当選。昭和53年より群馬県市長会長、昭和56年・全国市長会長表彰を受ける | 
| 歴史 | 〔近代・伊勢崎町〕明治22年(1889)~昭和15年(1940)の自治体名。初め佐位郡、明治29年より佐波郡に所属。明治24年の戸数1,365軒、人口は男2,991人・女2,738人、学校3・水車場8・船4。戸数・人口は、明治31年1,528戸・8,251人、明治37年1,684戸・9,179人、明治42年1,938戸・9,637人。世帯数・人口は、大正9年(1920)2,892・1万4,295人、大正14年3,801・1万8,645人、昭和10年(1935)4,601・2万3,588人、昭和15年4,889・2万4,108人。▼明治22年両毛鉄道が開通し、、伊勢崎駅が開業。明治43年に東武鉄道が開通し、新伊勢崎駅が開業。▼大正15年・町役場庁舎が本町4丁目へ新築移転。昭和15年・伊勢崎市の一部となる。 〔近現代・伊勢崎市〕昭和15年~現在の自治体名。昭和15年、伊勢崎町・殖蓮村・茂呂村の1町2村が合併して成立。合併時の世帯数7,626・人口3万9,496人。昭和20年戦災による死者29人・焼失戸数1,943、北国民学校・図書館・県立伊勢崎高等女学校などを焼失。昭和21年戦災復興都市計画事業を関係住民の反対で断念。昭和22年、カスリーン台風で死者39人・流失戸数259に及ぶ被害があった。▼昭和30年、三郷村・豊受村・名和村・宮郷村を合併。世帯数・人口は、1万1,005戸・8万5,876人。昭和43年、市役所庁舎が今泉町2丁目へ新築移転。昭和51年、伊勢崎オートレース開始。 | 
| 伝来 | 下城家・下城株式会社に伝存・保管。平成9年(1996)、当館へ寄託収集。 | 
| 数量 | 3943 | 
| 年代 | 天明元年(1781)11月18日~昭和60年(1985)2月10日 | 
| 構造と内容 | 当該文書群の構造は、明治期文書98点(約4.8%)、近代文書(明治期~大正期と考えられる文書)5点(0.2%)、大正期文書591点(約29.1%)、昭和期文書1,340点(約65.9%)からなる。▼今回の第一次公開では、明治16(1883)年11月4日、下城商店(輸出部)の「出荷明細書 三号(出荷銘細書控え綴帳、昭和17年3月4日まで)」が最も古い文書である。「下城商店」という社名は、明治16年11月以降、昭和期にかけての文書730点(第一次公開全体の35.9%)に記されている。「下城支店」という社名は、明治29年11月以降の文書14点に見受けられる。「下城買継店」は、明治39年8月(№531)~大正13年(№506)の文書29点に見受けられる。その他、甲種福壽生命保険証書(№649-1・№649-2)、終身生命保険証書(№649-3~№649-5)などは、下城家が明治30年頃以降に、東京の中央生命保険会社地方代理店を経営していたことを示す文書である。明治43年10月「土蔵新築買物扣」(№535)により、この年に下城家屋敷内の土蔵が新築されたことがわかる。明治40年代の金銭出入帳類も多く含まれている。▼大正3(1914)年12月頃、下城好雄商店は一度経営に行き詰まったが、多くの出資者・取引先が同社を支援し立ち直った。このことを示すのが、翌同4年1月「同意書」(№617-1~№617-9)類の文書である。同10年2月22日「株式会社下城商店株券」17点があり、これらの出資により、同社の経営がより改善したものと考えられる。▼昭和5年から昭和27年にかけての「店入日記」類が163点ある。大阪・東京方面の会社と活発な資材の取引を行っていたことがわかる。太平洋戦争が開始された直後の昭和16年12月16日、当時佐波郡宮郷村連取に、同家が住宅を建築した際の「建物建築届」(木造瓦葺き平家建住宅1棟届書、図面綴、№440-3)がある。同じく昭和期の〔建物平面図〕(下城商店輸出部工場 舎宅移転工事平面図、№440-5)、〔織物柄図案〕(№741~№745)なども下城家や下城株式会社に特徴的な史・資料である。▼【第2次公開(№1154~)】近世期文書6点(公開分約0.3%)、明治期文書317点(同約16.6%)、近代文書(明治期~大正期と考えられる文書)11点(同約0.6%)、大正期文書643点(同約33.7%)、昭和期文書932点(同約48.8%)からなる。▼近世文書には、天明元年(1781)の「田畑小物成上納辻」(№2418)、寛政8年(1796)の「辰夏成御年貢取立帳」(№2367)、嘉永2年(1849)の「田畑山林水帳写」(№2368)などがある。天明期・寛政期の2点は、いずれも差し出しが生越村(おごせむら、現利根郡昭和村越生)の名主であり、ここが近世期の同家居住地の可能性がある。明治2年(1869)「生枝村 万諸入用帳」(№2383)、差し出しがいずれも「生枝村 中村貞蔵」の文書が9点(明治3年~明治10年、№2370-1~№2370-9)ある。「生枝村」は、現沼田市白沢町生枝であり、明治10年頃まで、同家は生越村に拠点があったと考えられる。▼明治11年には下城弥一郎宛「田売渡証書之事」(№2489)、同「畑売渡証書」(№2483)があり、また、明治13年3月2日付、地租改正の地券証(佐位郡下植木村 持主 下城弥一郎)が計22点(№2468-1~同-18、№2477-1~同-4)あることから、この頃より佐位郡下植木(現伊勢崎市下植木町)に拠点を移したものと思われる。下城弥一郎は、この後明治14年から同19年にかけて下植木村の土地(耕地・林など)を継続的に取得している。明治21年以降は、銀行・繊維関係の史料が中心となっていく。こうした中で、明治30年4月、下城弥一郎は群馬県会議員に初当選し(№2439)、同32年再選時の〔県会議員推薦証〕が11点ある(№2377-1~同-11)。明治43年には、弥一郎の事業を継承した次男・好雄の株式売買関係の書簡が多く見られる(№1403-4~同-9)。▼大正4年(1915)4月、有志聯合(板垣合資会社・八田榮蔵・徳江弥三郎・峰尾定三郎・菊地順之・品川實治・森田徳右衛門ら)が、伊勢崎織物買継商店の整理・再建を支援するために出資(増資)した際の史料が多数ある(№1329-2、№1422-1、№1422-2、№1440-1~同-8など)。大正9年、伊勢崎織物同業組合の検査員らが新潟県・山形県へ管外出張・視察した際の復命書がある(№2258、№2260)。▼昭和9年11月の陸軍特別大演習及び県立前橋中学校改築記念関係の史料が多数含まれている(№2374-1~同-16)。昭和11年4月、「株式会社下城商店輸出織物工場図面」(№1816-1~同-3)などもある。昭和18年4月、太平洋戦争の激化に伴う下城織物工業株式会社の群馬県知事宛「転廃業ニ依ル設備処分承認申請書」(№1585-1~同-8)がある。 | 
| 検索手段 | 下城株式会社家文書、インターネット検索目録 | 
| 関連資料 | ①P9407 野村伊太夫家文書(伊勢崎市堀口町)、②P0907 倉林秀昭家文書(伊勢崎市今泉町)など | 
| 利用上の留意点 | 「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の取扱いに関する要綱」第5条および「群馬県立文書館における特定歴史公文書等以外の文書の閲覧制限基準」第2(非閲覧文書の指定事項)により閲覧が制限されている文書は本目録から除外した。 |