資料区分 県史複製
請求番号 H4-2中世
文書群名 須藤功家文書
伝存地 太田市
出所 太田市菅塩町
地名 上野国新田郡菅塩村/栃木県新田郡菅塩村(明治4年)/群馬県新田郡菅塩村(同9年)/新田郡強戸村大字菅塩(明治22年)/太田市大字菅塩(昭和32年)、その後太田市菅塩町
旧支配 初め幕府領/寛文元年(1661)旗本水野・酒井氏の相給/文久年間(1861~1864)旗本松平氏・向井氏・酒井2氏・水野氏の5給(上野国郡村誌)/幕末期は本町村寄場組合に属す/明治元年(1868)岩鼻県/同4年栃木県/同9年第二次群馬県
歴史 【菅塩】「和名抄」新田郡六郷の一つに祝人郷があるが、地内に小字祝人が残り、名残と考えられる。正中3年(1326)、元徳2年(1330)をはじめ鎌倉期から南北朝期の年紀を有する板碑が散在する。▼【中世 菅塩村】鎌倉期~室町期の文書に見える地名。新田郡新田荘のうち。宝治2年(1248)8月8日の岩松時兼譲状(正木文書/群馬県史 資料編5)に「譲渡 とちこせんの所 上野国新田庄内なりつかのかう、同すかしをの村、かなやの村」とあるのが初見で、当村などを「とちこせん」に譲っている。▼新田荘内では、その成立時に存在した郷に対して、その後の開発によって生じた村落を村と称しており、当村も成塚郷から開発されたことを示している。▼弘長2年(1262)8月28日の岩松時兼(覚智)譲状(同前)では、「新田庄にゐしまのうちのさいけ」を「とちこせん」に譲与しているが、その中に「すかしをにをきてハかやう□(に)公事をせぬところなれハ、京かまくらのくらしにをきてはいかうあるへからす」とあり、当村は公事のかからないところであった。▼弘安5年11月12日の尼真如譲状案(同前)によれば、当村などが女子の藤原土用王御前に譲られているが、真如は「とちこせん」と同一人物と考えられる。▼また、2通の南北朝期の建武元年(1335)12月21日の土用王御前と同一人物と考えられる尼妙蓮の譲状案(同前)では、源土用王・三郎直国を養子として当村などを譲っているが、この両人は同一人物である。▼貞和3年(1347)4月2日の足利尊氏袖判下文(同前)で、岩松直国は「新田庄内由良郷、成墓郷〈加菅塩・金屋両村〉」の地頭職に補任されている。
伝来 須藤功家
数量 1(簿冊1)
年代 嘉永元年(1848)8月
構造と内容 県史収集複製資料として公開している本文書群は1点。№1「関流算術入門帳」〔嘉永元年8月〕
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第1集、当館インターネット検索目録
関連資料 『群馬県史 史料編5』『太田市史 史料編 中世』など(参考文献:『角川地名大辞典 10 群馬県』、『上野国郡村誌 15 新田郡』など)
利用上の留意点 本資料は、マイクロ撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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