資料区分 県史複製
請求番号 H6-1中世
文書群名 善長寺文書
伝存地 館林市
出所 館林市当郷町
地名 上野国邑楽郡当郷村/館林県邑楽郡当郷村、栃木県邑楽郡当郷村(明治4年)/群馬県邑楽郡当郷村(同9年)/①邑楽郡館林町大字当郷、②邑楽郡郷谷村大字当郷(明治22年)/館林市当郷(昭和29年)
旧支配 初め館林藩領/寛永20年(1643)幕府領/翌正保元年(1644)館林藩領/天和3年(1683)幕府領/宝永4年(1707)館林藩領/享保19年(1734)幕府領/元文5年(1740)館林藩領/幕末期は館林町寄場組合に属す/明治4年(1871)館林県、栃木県/同9年第二次群馬県
歴史 【当郷】善長寺境内には、南北朝期の永徳3年(1383)の刻銘のある宝筺印塔がある。元亀元年(1570)長尾顕長の館林在城当時は土橋村と称し、外加法師に続く城下町の一部であったという(館林記/県史料集2)▼【善長寺】曹洞宗。巨法山観音院と号す。本尊は延命地蔵菩薩。寺蔵の源姓赤井系図によると、大永3年(1523)赤井家範が戦死した兄信家の菩提を弔うため、城沼北岸にある観音堂の東方に一寺を創建し、大雲惟俊を開山とした。▼信家の法名は、善長寺殿。元亀元年(1570)11月赤井氏の老臣諸野(毛呂)因幡守が謀反を起こし、いったんは当寺において和議となったが、会談中謀られて一族郎党ともに自害して果てたという(館林盛衰記)。▼境内の館林城主榊原(松平)忠次の生母祥室院の墓は、高さ約5mの宝筺印塔である。灯籠2基のうち1基は、寛永10年(1633)のもの。慶安元年(1648)邑楽郡大曲村内で朱印地50石を与えられた(寛文朱印留)。▼25世寛令は、藩内佐幕派の黒幕といわれたが、明治元年(1868)館林藩が東北へ出兵する際、江戸角筈(つのはず)の藩下屋敷で惨殺された。▼本堂前に榊原康政の愛妾お辻主従の供養塔、右手に館林藩校道学館教授の石井わかつの墓があり、その墓誌は頼杏坪(らいきょうへい)である。
伝来 善長寺
数量 2(簿冊1)
年代 貞享4年(1687)7月
構造と内容 №1「観音銭記」〔貞享4年7月〕、№2「〔源姓赤井氏系図〕」〔年次不詳〕
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第1集、当館インターネット検索目録
関連資料 『館林市史 資料編2 中世』(参考文献:『角川地名大辞典 10 群馬県』、『上野国郡村誌 17 邑楽郡』など)
利用上の留意点 本資料は、マイクロ撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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