資料区分 |
県史複製 |
請求番号 |
H6-2中世 |
文書群名 |
善導寺文書 |
伝存地 |
館林市 |
出所 |
館林市楠町 善導寺 |
地名 |
【移転前の本町】上野国邑楽郡館林町谷越町/館林県館林町谷越町(明治4年7月)、栃木県邑楽郡館林町谷越町(同年11月)/群馬県邑楽郡館林町谷越町(同9年)/邑楽郡館林町館林(明治22年)/館林市館林(昭和29年)/館林市本町1~4丁目、仲町(昭和44年~)▼ 【移転先の楠町】寛文2年に田谷村・四ツ谷村を分村(県邑楽郡町村誌材料)/上野国邑楽郡羽附町/館林県邑楽郡羽附村、栃木県邑楽郡羽附村(明治4年)/群馬県邑楽郡羽附村(同9年)/邑楽郡赤羽村大字羽附(明治22年)/館林市大字羽附(昭和29年)/館林市羽附町、一部が羽附旭町、花山町、楠町となる(昭和61年~) |
旧支配 |
初め館林藩領/天和3年(1683)幕府領/宝永4年(1707)館林藩領/享保19年(1734)幕府領/元文5年(1740)館林藩領/幕末期は館林町寄場組合に属す/明治4年(1871)館林県、栃木県/同9年第二次群馬県 |
歴史 |
浄土宗。号は終南山見松院。本尊は阿弥陀如来。東上州三十三番札所の第5番。▼寺伝によると、和銅元年(708)に僧行基が土橋村と加法師村との間に草庵を営み、止住したのに始まるといい、後に鎌倉中期に専修道場として再興されたという(邑楽郡誌)。▼天正12年(1584)、同13年に北条家が保護(善導寺所蔵/県史資料編7 中世3 「北条氏照禁制」「北条家禁制」)。▼天正18年、館林領に入封した榊原康政が、慶長5年(1600)に幡随意白道を中興開山として再建(幡随意上人伝では中興を天正3年とする。「大日料12-17」)。▼慶長15年に館林城で没した榊原康政は当寺に葬られた。その墓は高さ5.15mの宝篋印塔で、康政画像を付して県史跡。▼榊原家墓地には康政の長子の大須賀忠政や、2代榊原康勝の五輪塔などがある。▼明治40年(1907)、東武鉄道伊勢崎線の開通により寺域内に館林停車場(現館林駅)が設けられた。昭和61年(1986)、駅前拡幅により城沼北方の現在地に移転した。 |
伝来 |
善導寺に伝来 |
数量 |
13(簿冊1) |
年代 |
寛永13年(1636)11月14日~明治時代 |
構造と内容 |
No.6「覚(寺領100石分の朱印地下付依頼)」〔寛永13年〕、No.10「善導寺領内8人の百姓へ居屋敷等免許状」〔正保3年〕、No.5「正観音他破損に付修理寄進状」〔慶安元年〕、No.4「松平忠次公詠歌覚書」〔慶安元年〕、No.7「指下一書(名主帯刀免状)」〔享保10年〕、No.9「昌安院遺志にて法華経奉納覚」〔享保12年〕、No.3「覚(遍照寺住持の法衣返還一件)」〔延享3年〕、No2.「曼荼羅修補来歴」〔宝暦6年〕、No1.「曼荼羅修補来歴」〔弘化3年〕、No.12「上州邑楽郡之内郷村高帳(秋元但馬守領知)」〔明治2年〕、No.11「覚(善導寺由来及び旧幕府よりの判物返還の事)」辰年、No.13「榊原忠宝書状(晒2疋進上の事)」、No.8覚(所替に付寺領100石分付替え一件) |
検索手段 |
『群馬県史収集複製資料目録』第1集、当館インターネット検索目録 |
関連資料 |
『群馬県史 資料編7 中世3』、『館林市史 資料編2 中世』▼(参考文献:『角川地名大辞典 10 群馬県』、『上野国郡村誌 17 邑楽郡』など) |
利用上の留意点 |
本資料は、マイクロ撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。また、原資料所蔵者の許可なく複写できません。 |