資料区分 |
県史複製 |
請求番号 |
H6-3中世 |
文書群名 |
館林長良神社文書 |
伝存地 |
館林市 |
出所 |
館林市本町 |
地名 |
上野国邑楽郡館林町/館林県邑楽郡館林町、栃木県邑楽郡館林町(明治4年)/群馬県邑楽郡館林町(同9年)/邑楽郡館林町大字館林(明治22年)/館林市大字館林(昭和29年)/館林市本町(昭和45年~現在) |
旧支配 |
館林藩領/幕末期は館林町寄場組合の寄場/明治4年(1871)館林県、栃木県/同9年第二次群馬県 |
歴史 |
【中世 館林】戦国期に見える地名。邑楽郡佐貫荘のうち、立林とも書く。文明3年(1471)と推定される年未詳5月1日の足利成氏書状(高文書/群馬県史資料編7)に「相籠立林候之条尤候」とある。▼関東では、享徳3年(1454)に鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を殺害して以降、二派に分かれて戦乱が展開されていたが、この書状で成氏は高師久に立林要害にたて籠もることを命じた。しかし、5月28日には上杉顕定が「去廿三日上州佐貫庄立林要害中城攻落時」の戦功についての感状を豊島泰昭・同泰景・大熊伊賀守にそれぞれ与えており(豊島宮城文書/群馬県史資料編7、記録御用所本古文書)、ほどなく落城したものとみられる。▼「松陰私語」第2(群馬県史資料編7)によると、館林城主は舞木氏の被官赤井文三・文六であり、上杉方の長尾景信父子・太田道灌らが開城降伏させたという。赤井氏は、その後上杉方に降り、舞木氏に代わってこの地方を支配した。▼道興准后の東国回国を記した「廻国雑記」には、「三月二日、とね川、青柳、さぬきの庄、館林、ちづかうへのの宿などうち過て、佐野にてよめる」とあり、文明19年3月2日に利根川を越えて当地を訪れている(群馬県史資料編7)。▼天正2年(1574)と推定される年未詳5月30日の上杉謙信書状(田中文書/群馬県史資料編7)に「渡良瀬川ヨリ新田・足利ヘ懸ル用水候、是ヲ切落候得者、新田・館林・足利迄成亡郷由申候間、足利・新田之間、金井宿之際ニ陣取、堰四ツ切落」とあるように、この時謙信は敵方に打撃を与えるために用水の堰を切り落とし、同年と推定される霜月24日の上杉謙信書状(東京大学史料編纂所所蔵那須文書/同前)に「足利・館林・新田領悉放火」、同年と推定される閏11月20日の上杉謙信書状写(名将之消息録所収/同前)に「義氏様御座所古河并南衆抱候栗橋・同館林、四五ヶ所之敵城押通・・・悉武州敵地放火成?候」とあるように館林領でも放火を行っている。▼天正8年(1580)と推定される辰の9月13日の北条家伝馬手形(県文書/群馬県史資料編7)に「自小田原館林迄宿中」と伝馬所が確立している。同年と推定される年未詳10月12日の武田勝頼書状(上杉家文書/同前)に「小泉・館林・新田領之民屋、不残一宇放火」とあり武田勝頼が東上州に進出し、当地などの民家に放火している。勝頼は、越後の御館の乱で上杉景勝に味方し、景勝から東上州の支配権を委ねられたためである。 |
伝来 |
館林長良神社 |
数量 |
6(簿冊1) |
年代 |
寛永4年(1627)5月21日~文政9年(1826)12月 |
構造と内容 |
№1「〔佐貫庄66郷年行事職補任状〕」〔寛永4年5月〕、№6「〔年行事職霞支配等差縺れ一件申渡〕」〔文政9年12月〕、№2「松平輝貞書状(年始祝儀の礼状)」〔2月11日〕、№3「長良大明神縁起之写」〔年次不詳〕、№4「武田信玄書状(入峯祈願に付腰物進献)」〔7月10日〕、№5「武田信君書状(御門跡入峯に付安全祈願の事)」〔7月14日〕 |
検索手段 |
『群馬県史収集複製資料』第1集、当館インターネット検索目録 |
関連資料 |
『群馬県史 資料編5』、『群馬県史 資料編7』、『館林市史 資料編2 中世』(参考文献:『角川地名大辞典 10 群馬県』、『上野国郡村誌 17 邑楽郡』など) |
利用上の留意点 |
本資料は、マイクロ撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。 |