資料区分 県史複製
請求番号 H6-5中世
文書群名 茂林寺文書
伝存地 館林市
出所 館林市堀工町
地名 上野国邑楽郡堀工村/館林県邑楽郡堀工村、栃木県邑楽郡堀工村(明治4年)/群馬県邑楽郡堀工村(同9年)/邑楽郡六郷村大字堀工(明治22年)/館林市大字堀工(昭和29年)/館林市堀工町、一部が南美園町・分福町となる(昭和60年)
旧支配 延宝5年(1677)青柳村から分村して成立、初め館林藩領/天和3年(1683)幕府領/宝永4年(1707)館林藩領/享保19年(1734)幕府領/元文5年(1740)館林藩領/幕末期は川俣村寄場組合に属す/明治4年(1871)館林県、栃木県/同9年第二次群馬県
歴史 【茂林寺】曹洞宗。山号は青竜山。本尊は釈迦牟尼仏。分福茶釜伝説の寺として知られている。▼開山の大林正通は、美濃国土岐氏の出身で、師は無極四派の一つ華叟派で美濃国関の竜泰寺開山華叟正蕚(日本洞上聯燈録)。正通は、修行のため諸国を行脚して上野国伊香保山麓で守鶴を知り、応永33年(1426)守鶴を伴って当地に来住し小庵を結んだという。▼応仁元年(1647)正通は、相模国最乗寺(神奈川県南足柄市)の住職となった(同前)。▼翌2年青柳城主赤井照光は、正通の徳を慕い伽藍を建立してその開基となり、正通を開山とし寺領8万坪を寄進したと伝えられている。正通は、文明16年(1484)に寂した。▼大永2年(1522)11月12日の後柏原天皇綸旨で勅願寺となった(茂林寺文書/群馬県史 資料編7)。▼永禄年間(1558~1570)に長尾景長は伽藍を修復し、寺領を寄進したという。天正18年(1590)8月19日榊原康政は茂林寺に、寺中に対する非分狼藉、竹木の伐採、田畠への牛馬放ちを禁ずる禁制を出している(同前)。▼寛永10年の竜穏寺末寺帳には華叟派之内大林派とあり、「寺中門前屋敷弐拾石并寺廻之山弐拾町四方榊原古式部殿指置也、前代之寺領ハ永楽五千貫也」と記され、末寺68か寺は上野・下野・武蔵・信濃に分布する(本末帳集成)。寺領は、寛永19年に青柳村のうちで23石4斗余と山林竹木諸役免除となった(寛文朱印留)。▼現本堂は、享保13年~同15年(1728~1730)、山門は元禄7年(1694)の建築。開山の正通に伴われて茂林寺に来た守鶴は古タヌキの化身で、汲めども尽きぬ茶釜をもたらしたとの伝説は、「甲子夜話」にも記されている。
伝来 茂林寺
数量 7(簿冊1)
年代 大永2年(1522)11月12日~享保3年(1718)7月11日
構造と内容 №4「後柏原天皇綸旨(茂林寺を勅願寺とする事)」〔大永2年11月〕、№1「雪嶺正瑞叟御詠歌」〔天正18年2月〕、№2「榊原康政定書(竹木伐採の禁など3カ条)」〔(天正18年)寅8月〕、№5「月圓光禅師漢詩」〔慶長2年10月〕、№3「松平忠次定書(竹木伐採の禁など3カ条)」〔寛永12年9月〕、№6「徳川家光朱印状写(青柳村内23石余の寄進)」〔寛永19年9月〕、№7「徳川吉宗朱印状写(青柳村内23石余の寄進)」〔享保3年7月〕
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第1集、当館インターネット検索目録
関連資料 『群馬県史 資料編7』、『館林市史 資料編2 中世』(参考文献:『角川地名大辞典 10 群馬県』、『上野国郡村誌 17 邑楽郡』など)
利用上の留意点 本資料は、マイクロ撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
先頭に戻ります。