資料区分 県史複製
請求番号 H6-6中世
文書群名 龍興寺文書
伝存地 館林市
出所 館林市高根町
地名 上野国邑楽郡高根村/館林県邑楽郡高根村、栃木県邑楽郡高根村(明治4年)/群馬県邑楽郡高根村(同9年)/邑楽郡多々良大字高根(明治22年)/館林市大字高根(昭和29年)/館林市高根町、南西端の一部が松沼町(昭和45年)、国道122号以南の大部分が西高根町となる(昭和58年)
旧支配 初め館林藩領/寛永20年(1643)幕府領/翌正保元年(1644)館林藩領/天和3年(1683)幕府領/宝永4年(1707)館林藩領/享保19年(1734)幕府領/元文5年(1740)館林藩領/幕末期は館林町寄場組合に属す/明治4年(1871)館林県、栃木県/同9年第二次群馬県
歴史 【中世 高根郷】鎌倉期~戦国期に見える郷名。邑楽郡佐貫荘のうち。▼嘉暦3年(1328)4月8日の三善貞広寄進状案(長楽寺文書/群馬県史資料編5)によれば、「上野国佐貫庄内高根郷内弘願寺」に対して同荘内外の9か所の地の名田畠を寄進しているが、同寄進状案に添えられた弘願寺寺領注文案(同前)に「上野国佐貫庄内高根郷名田畠」が見える。▼弘願寺は現存しないが、館林市高根に竜興寺(高根寺ともいう)があり、この寺の前身かとも考えられる。同寺は、三善氏の保護を受けていたが、同氏の没落によって衰退したのであろう。▼戦国期では、永禄7年(1564)7月27日の北条氏禁制写(小田原編年録5)によれば、「高根」に宛てて軍勢・甲乙人の濫妨狼藉の停止を命じている。館林領は、永禄5年2月に上杉輝虎(謙信)が攻め取り、足利の長尾景長に与えていたが、この頃再び小田原北条氏がこの地に進出したものであろう。▼天正12年(1584)12月晦日には、小田原北条氏は、「〈館林〉高根寺」に対して禁制を出している(龍興寺文書/群馬県史資料編7)。さらに、翌年正月13日には「高根之郷」に宛てて百姓の還住・濫妨狼藉の停止を命じた禁制を出している(同前)。▼天正12年に金山城主由良国繁とその弟である館林城主長尾顕長は、小田原に伺候した所を拘禁され、両城の明け渡しを要求されたが、両氏ともこれを拒否し合戦となった。小田原北条氏は両城を囲み、同年末には両氏を降伏させ、それぞれ桐生・足利に退去させた。▼その結果、支配下に入った高根寺および高根郷に禁制を出したのである。この高根寺は、江戸期の龍興寺にあたる。
伝来 龍興寺
数量 3(簿冊1)
年代 天正12年(1584)甲申年12月晦日~天正13年(1585)乙酉年1月13日
構造と内容 №1「北条家禁制(軍勢濫妨の禁など)」〔(天正12年)甲申年12月〕、№2「北条家禁制(当郷の百姓還住の事など)」〔(天正13年)乙酉年1月〕、№3「榊原康政禁制(軍勢濫妨の禁など)」〔3月1日〕
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第1集、当館インターネット検索目録
関連資料 『群馬県史 資料編5』、『群馬県史 資料編7』、『館林市史 資料編2 中世』(参考文献:『角川地名大辞典 10 群馬県』、『上野国郡村誌 17 邑楽郡』など)
利用上の留意点 本資料は、マイクロ撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
先頭に戻ります。