資料区分 県史複製
請求番号 H7-5中世
文書群名 長尾輝景家文書
伝存地 渋川市
出所 渋川市並木町
地名 群馬郡渋川村(近世)/西群馬郡渋川町(明治22年)/群馬郡渋川町(明治29年)/北群馬郡渋川町渋川(昭和24年)/渋川市渋川(昭和29年~現在)
旧支配 初め高崎藩領/元和元年(1615)安中藩領/天和元年(1681)幕府代官高室安右衛門・岡上次郎兵衛支配の幕府領/元禄4年(1691)幕府領の3分の2を表高1,500石の旗本酒井氏領として分給し、幕府領・旗本領・真光寺領の3給/幕末期は当渋川村ほか27か村の寄場/明治元年(1868)前橋藩支配/同4年前橋県、第一次群馬県/同6年熊谷県/同9年群馬県/同11年群馬県西群馬郡に所属
歴史 【中世 渋河保】南北朝期に見える保名。荘園名でも見え、渋川とも書く。▼東京国立博物館蔵の貞和4年(1348)7月27日の年紀を有する懸仏(上毛金石文年表)に「渋河金屋天王」と見え、埼玉県小川町鎌形八幡宮蔵の同年10月日の年紀を有する懸仏(同前)には「渋河閑坊」と見える。南北朝期に成立した「神道集」には「上野国三宮伊香保大明神事」として「群馬ノ郡渋河ノ保ノ郷ノ戸ノ村ニ衆生利益ノ為ニトテ療治ノ御湯出サレタリ」と見え、伊香保周辺まで当保に含まれていたことが知られる。▼身延山に残る法華経奥書(昭和現存天台書籍綜合目録上)に「応永十一年二月一日上州群馬郡渋川談所」と見え、同じく日光山に残る眷属妙義(同前)には「文安二年於渋川叡印写」とある。江戸初期に成立した「双林寺伝記」には、「(長尾景仲)領分渋川ノ信光寺ニ、相州江之島ノ弁才天ヲ昔ヨリ勧請シテ武門繁昌ヲ祈願ス、信光寺ノ道場ニハ・・・先祖代々ノ聖霊并家臣戦場ニテ討死ノ忘魂、為頓証菩提常念仏ヲ唱テ弔也」と見え、長尾氏は当地所領内に先祖及び家臣の菩提を弔うための寺院を建立しており、当地を重視していたことが知られる(続々群4)。▼真光寺は、「仏地院過去帳」の永正11年(1514)頃に「十二日覚祐法印〈上州渋川 真光寺〉」(群馬県史資料編7)、また天文7年(1538)3月上旬に修復された顕密勝劣私案丘の奥書(叡山文庫真如蔵/群馬県史資料編7)に「上州渋河真光寺」と見える。▼なお、元亀3年(1572)8月28日の武田信玄定書写(真光寺文書/同前)によれば、同寺に対して天台の仏法興隆のためとして、如来寺分8貫文などを寄進しているが、これは、同年信玄が白井城攻略に際し、真光寺を焼き払ったことによる。▼永禄10年(1567)5月朔日の武田家朱印状写(新編会津風土記所収浦野文書/同前)には、「渋河之内石原之郷、定所務百五十貫文所出置候」と見え、浦野民部右(左カ)衛門に当地が宛行われている。▼天正10年(1582)2月26日の北条高広寄進状写(子持神社文書/同前)には、「子持山為寄進、渋川入沢村之内十弐面(ママ)参貫五百文之所、永代会遣納候」と見え、当地内入沢村の所領を子持神社に寄進している。▼天正14年2月14日の冨沢大学宛て真田昌幸書状写(長国寺殿御事蹟稿/同前)および同年月日の唐沢玄蕃丞宛て真田昌幸朱印状案(吾妻記/信濃史料補遺上)では、各々「渋河之内百貫文」が宛行われている。
伝来 長尾輝景家
数量 44(簿冊11)
年代 明和5年(1768)8月1日~明治2年(1869)
構造と内容 県史収集複製資料として公開している本文書群は44点。№117/35「名臣遺事(小鳥丸太刀図など)」〔明和5年8月〕、№117/24「長尾家傳年代記」〔安永2年2月〕、№116/22「錬兵精舎戊子存稿(満徳寺に遊ぶの記・豊臣大閤論他)」〔(文政11年カ)〕、№117/34「御下知書之写」〔弘化4年10月〕、№114/13「草木道中記(順覧草木奇石路程略図説)」〔嘉永元年9月〕、№111/8「黙傳窩随筆(関東管領憲政年譜考証等)」〔嘉永4年11月〕、№112/9 「癸丑・甲寅筆録」〔安政2年〕、№115/19「戊午録(日々の諸記録他写)」〔安政5年〕、№114/18「己未帖(故人の謂・諸日記他写)」〔安政6年〕、№114/17 「上野三国士論(寺尾城将・箕輪城将・惣社城将3家の記録)」〔年次不詳〕、などがある
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第1集、当館インターネット検索目録
関連資料 『群馬県史 資料編7』、『渋川市誌 第5巻 歴史資料編』、など(参考文献:『角川地名大辞典 10 群馬県』、『上野国郡村誌 6 群馬郡(3)』など)
利用上の留意点 本資料は、マイクロ撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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