資料区分 県史複製
請求番号 H8-8中世
文書群名 高山吉重家文書
伝存地 藤岡市高山
出所 藤岡市高山
地名 緑野郡高山村(近世)/緑野郡美九里村大字高山(明治22年)/多野郡美土里村大字高山(明治29年)/藤岡市高山(昭和29年~現在)
旧支配 元は椚山・悪矢場・沢口・白塩の4か村に分かれていたが、寛文~元禄年間に合併して高山村となった。初め幕府領/元禄11年(1698)から旗本の筒井氏領/幕末期は新町宿寄場組合/明治元年(1868)岩鼻県/同4年第一次群馬県/同6年熊谷県/同9年第二次群馬県
歴史 【中世 高山御厨】平安末期~室町期に見える御厨名。緑野郡のうち。荘園名でも見える。▼「玉葉」の安元元年(1175)11月14日条に「上野国高山御厨、訴申児玉庄濫行事」とあり、国境を隔てた武蔵国児玉荘から濫行が成され、これを高山御厨から訴えていることがわかる。▼応永25年(1418)4月13日の関東管領(上杉憲実)家奉行人連署奉書写(蜷川親治氏所蔵文書/県史資料編7)に「上野国高山御厨中村郷」とあり、これらの史料から、当御厨は大塚郷・栗須郷・白塩・かんだ中村郷などの地域を含み、現在の藤岡市の大半を占めていたことがわかる。▼永享12年(1440)と推定される年未詳12月3日の長棟(上杉憲実)書状(安保文書/同前)に「就高山辺時宜委曲承候」とあり、年未詳正月13日の足利成氏感状(同前)には、「去十日高山庄相発」とあり、安保氏が当地などを転戦している。永禄9年(1566)と推定される年未詳11月10日の上杉輝虎書状写(内閣文庫所蔵富岡家古文書/県史資料編7)に、「上者高山、下者深谷近辺悉放火、敵五十余討捕」とあって上杉謙信の関東進出に際して当地は放火されている。▼高山氏は、永禄10年武田氏に起請文を出しており(生島足島神社文書/同前)、武田氏に臣従している。▼元亀3年(1572)6月14日の武田家朱印状(高山徳樹家文書/同前)では人返しが命じられているが、その中に「高山領之地下人」が見える。天正13年(1585)11月3日の上杉景勝充行状(矢沢文庫/同前)には、「高山之事」とあり、矢沢薩摩守への宛行が約束されている。
伝来 高山吉重家
数量 10(簿冊1)
年代 元亀2年(1571)2月22日~昭和10年(1935)
構造と内容 県史収集複製資料として公開している本文書群は10点。№2「武田信玄書状(先日の戦いで味方の勝利報告)」〔(元亀2年)2月〕、№1「武田家定書(沼上内高山分を那波へ改替え)」〔天正9年2月〕、№9「小柏氏系図(平姓)」〔昭和10年〕、№10「神明縁起之覚」〔年次不詳〕、№3「〔高山家系図〕」〔年次不詳〕、№4「東上州高山氏系譜略(新田郡下田島村高山氏)」〔年次不詳〕、№5「〔高山家系図〕」〔年次不詳〕、№6「高山氏系図(平姓)」〔年次不詳〕、№7「高山氏系図(平姓)」〔年次不詳〕、№8「藤原上杉系図」〔年次不詳〕
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第1集、当館インターネット検索目録
関連資料 『群馬県史 資料編7』、『藤岡市史 原始・古代・中世』、『群馬県立歴史博物館所蔵 中世文書資料集』、『群馬県立歴史博物館所蔵資料目録 高山社・蚕業学校関係資料』など(参考文献:『角川地名大辞典 10 群馬県』、『上野国郡村誌 7 多野郡』など)
利用上の留意点 本資料は、マイクロ撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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