資料区分 県史複製
請求番号 H8-29-3近世
文書群名 坂本計三家文書
伝存地 藤岡市高山
出所 藤岡市高山 坂本家
地名 緑野郡高山村(江戸時代)/緑野郡美九里村大字高山(明治22年~)/藤岡市高山(昭和29年~現在)
旧支配 徳川氏領(天正18年~)/幕府領代官支配(慶長8年~)/旗本領(筒井氏、 元禄11年~)/岩鼻県(明治元年7月~)/第一次群馬県 (明治4年10月~)/熊谷県(明治6年~)/第二次群馬県(明治9年~)
役職等 高山村名主・組頭、伍長、高山村戸長、村会議員・伍長、炭取引業など
歴史 高山は、神流川支流の三名川流域に位置する。地名は、地形からきたものと思われる。もとは、椚山・悪矢場・沢口・白塩の4か村に分かれていたが、寛文~元禄年間に合併して高山村となる。▼村高は、「寛文郷帳」では椚山村40石余・悪矢場村30石余・沢口村21石余・白塩村87石余と見え、全て皆畑、「元禄郷帳」266石余、「天保郷帳」229石余、「旧高旧領」216石余。集落は、三名川上流域の小平地に分布し、川沿いの道路が1本通り各集落を結ぶ。この道は白塩道につながり、三本木村・矢場村を経て、庚申山西側を通り藤岡に通じる主要道路であった。▼他に隣接する集落や畑・山林を結ぶ山坂道や隣村への峠道があり、金井村・下日野村・三波川村などへ通じた。幕末の改革組合村高帳では、新町宿寄場組合に属し、高229石余・家数59。畑作を主とし、山林では薪炭を生産した。▼当村は、高山社式養蚕法の発祥地で、明治初年の高山長五郎が清温育法を工夫・考案して広めた養蚕技術が藤岡地方を中心に普及したため、著しい発展を遂げた。明治3年(1870)高山組が組織され養蚕法を学ぶ者が増加し、同17年には養蚕改良高山社として県内外にまで普及した。▼神社は御霊神社を祀るが、「郡村誌」には神明社と記される。他に赤城神社・稲荷神社などを地区で祀ったが、明治10年合社した。▼寺院は、下組に曹洞宗興禅院・時宗仙源寺・天台宗高倉寺、椚山に天台宗泉光院などがあった。明治11年泉光院は高倉寺に合併。▼西三名川学校は、明治8年泉光院に仮設して開校、生徒数は男15・女15。同15年高山小学校を設置したが、同18年緑埜第三北小学校に合併したため同校は高山分教場として存続した。▼『群馬県立文書館収蔵文書目録』13も参照されたい。
数量 40
年代 寛永17年(1640)~明治6年(1873)ごろ
構造と内容 寛永17年1点、天和2年1点、明和2年1点のほかは天明6年以降の文書である。明細書上帳、御用状并廻文扣、「殿様百両御無尽初会割合本帳」、「駿府迄道中日記」などもある。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第2集、インターネット検索目録
関連資料 当館所蔵の同家の原本として「坂本祐一家文書(旧坂本計三家文書)」(P8202)、複製資料として「坂本計三家文書」(H8-29-1近現)がある。ほかに『藤岡市史』など。(参考文献:『角川日本地名大辞典』10[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]『上野国郡村誌』、『上野国郷帳集成』など)
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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