資料区分 県史複製
請求番号 H10-1-3近世
文書群名 安中市教育委員会文書(安中宿本陣)
伝存地 安中市
出所 安中市安中 安中市教育委員会所蔵(安中宿本陣)
地名 上野国碓氷郡安中宿/安中県碓氷郡安中宿(明治4年・1871年7月)/群馬県碓氷郡安中宿(明治4年10月)/熊谷県碓氷郡安中宿(明治6年)/群馬県碓氷郡安中宿(明治9年)/碓氷郡安中町大字安中(明治22年)/安中市安中(昭和33年・1958年)
旧支配 安中藩領(慶長年間~)/安中県(明治4年・1871年7月~)/第一次群馬県(明治4年・1871年10月~)/熊谷県(明治6年・1873~)/第二次群馬県(明治9年・1876年~現在)
歴史 慶長年間、中山道の伝馬制度の整備に伴い、中山道北側沿いの上野尻村内1町6反余の地と南側沿いの下野尻村内1町1反余の地をもって伝馬宿の取立てが図られ、北側へ29軒、南側へ36軒、計65軒の家並みが作られて安中宿と定められた(『安中市誌』)。上野尻村・下野尻村・谷津村を包み込んで中山道に沿って東西に長い町並みができあがっていき、安中宿・上野尻村・下野尻村・谷津村を安中と称するようになった。このうち、宿の機能を果たす安中宿は伝馬町とも呼ばれ、他3か村と異なり地子免除の地で高付けされなかった。宿内では、2・7の日の六斎市が立ち、絹・麻・木綿・古着・小間物・塩・茶・穀物などが取引された。中山道各宿の人馬役は、50人・50匹が御定めであったが、安中宿は無高貧窮の宿駅ということで、25人・25匹の軽減を受けた時期が長くあった。定助郷は19か村、助郷高合計1万714石。幕末の改革組合村高帳によると、当宿が甘楽郡・碓氷郡の各一部からの計31か村の寄場となり、高付けはなく、家数87軒(うち谷津村分25軒)であった。
伝来 安中市安中 安中市教育委員会所蔵(安中宿本陣)
数量 134
年代 慶長19年(1614)10月~明治17年(1884)5月
構造と内容 御目安を以申上候(慶長19年)、伝馬町市町定之事(上・中・下町順番に市立ての事他、延宝元年)、条々(安中所替に付条々、寛延2年)、乍恐以書付申上候(信州中馬荷物の口銭願書へ添翰願い、明和2年)、願書写(安中宿困窮にて人馬難儀に付、文政5年)、安中宿書上帳(宿明細、天保15年)などがある
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第2集、インターネット検索目録
関連資料 参考文献:『角川日本地名大辞典10群馬県』、『群馬県姓氏家系大辞典』など
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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