資料区分 県史複製
請求番号 H10-24-1近世
文書群名 上杉うづ家文書
伝存地 安中市
出所 安中市板鼻 上杉家
地名 上野国碓氷郡板鼻村(近世)/安中県碓氷郡板鼻村(明治4年・1871年7月)/群馬県碓氷郡板鼻村(明治4年10月)/熊谷県碓氷郡板鼻村(明治6年)/群馬県碓氷郡板鼻村(明治9年)/碓氷郡板鼻町(明治22年)/碓氷郡安中町大字板鼻(昭和33年・1958年)/安中市板鼻(昭和41年・1966年~現在)
旧支配 前橋藩領(近世初期)/幕府領(延享4年・1747年)/岩鼻県(明治元年・1868年)/第一次群馬県(明治4年・1871年10月)/熊谷県(明治6年・1873)/第二次群馬県(明治9年・1876年~現在)
役職等 聖護院流本山派修験 三宝院鷹巣寺
歴史 碓氷郡には東西に各1軒の修験道の正、準年行事職がいて原市以東を鷹巣寺が、郷原より西を蓮花院久蔵坊(きゅうぞうぼう、松井田町)がそれぞれこの職にあったという(「松井田町の文化財」)。▼板鼻は江戸日本橋から中山道14番目の宿駅で、板鼻宿と呼ばれた。村高は、「寛文郷帳」で1,224石余のうち田方582石余・畑方641石余、「元禄郷帳」では「板鼻町」と見え1,301石余、「天保郷帳」1,378石余、「旧高旧領取調帳」1,375石余。寛政3年(1791)の御用留(福田家文書)によれば、宿高1,291石余、宿内間数9町14間、家数232、但し町並み6間間口を1軒、裏町12間間口を1軒として183軒半で伝馬役を勤めた。他に、宿並外裏家百姓家数57、問屋場2、問屋場へは15日交替で2人が勤め、本陣1・脇本陣1、飯盛下女を抱える旅籠屋43、茶屋15。幕末の改革組合村高帳では、当宿ほか34か村組合の寄場となり、高は寺領を除いて1,298石余、家数317。「旧高旧領取調帳」によると、寺領は天台宗称名寺27石余、曹洞宗長伝寺26石余、時宗聞名寺22石余。助郷は、近辺の碓氷郡・群馬郡から28か村・1,853石余、加助郷は群馬郡14か村・5,283石余であった。定助郷28か村のうち、25か村は正徳3年(1713)から、残りの3か村は宝暦2年(1752)から新たに定められた(『安中市誌』)。碓氷川の川越場所は、鷹巣山の南の崖下と中宿村の間であり、貞享元年(1684)頃までには何らかの定仮橋があったとみられるが、宝暦2年(1752)夏期の仮土橋を架け、明和2年(1765)に道中奉行の命により年間の土橋を架けた。川越賃金については、相対では問題が多かったため、文政13年(1830)に公定賃金を定め、以後の基準となった。文久元年(1861)、公武合体政策のため第14代将軍徳川家茂へ嫁ぐ皇女和宮が板鼻宿の木島本陣に宿泊した。
伝来 安中市板鼻 上杉家
数量 99
年代 慶長3年(1698)9月~明治2年(1869)11月
構造と内容 雨引法流之大事(慶長3年)、年行事職之次第(慶長14年)、指上申一札之事(元禄4年)、万覚帳(正徳3年)、聖護院門跡御教書(天保10年)、などがある。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第2集、インターネット検索目録
関連資料 当館収蔵の本山派修験関係として、内山幹雄家文書(大蔵坊、PF0001)、栗崎智康家文書(日野坊、P8207)、長見寺文書(P0006)、浦野恒彦家文書(大乗院、P8907)、浦野安孫家文書(大乗院、和田山極楽院、P0603)、小幡宰太郎家文書(寶常院、P0503)、長尾貞治家文書(東覚院、P01902)、「吉井町郷土資料館文書9(伊藤幸吉家文書)」(矢田坊、H42-1-1(9)近世)など。▼関係史料として茂木氏旧蔵「久蔵坊関係文書」※『群馬県立歴史博物館所蔵 中世文書資料集』に5点の中世文書の画像と翻刻が掲載されている。▼図書として『山伏の地方史 -群馬の修験道-』(みやま文庫)、「上野国本山派山伏名所記」(前橋市立図書館蔵、『前橋市史』6)など。▼参考文献:『角川日本地名大辞典10群馬県』、『群馬県姓氏家系大辞典』など
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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