資料区分 県史複製
請求番号 H10-26-1近世
文書群名 阿部正恵家文書
伝存地 安中市
出所 安中市板鼻 阿部家
地名 上野国碓氷郡板鼻村(近世)/安中県碓氷郡板鼻村(明治4年・1871年7月)/群馬県碓氷郡板鼻村(明治4年10月)/熊谷県碓氷郡板鼻村(明治6年)/群馬県碓氷郡板鼻村(明治9年)/碓氷郡板鼻町(明治22年)/碓氷郡安中町大字板鼻(昭和33年・1958年)/安中市板鼻(昭和41年・1966年~現在)
旧支配 前橋藩領(近世初期)/幕府領(延享4年・1747年)/岩鼻県(明治元年・1868年)/第一次群馬県(明治4年・1871年10月)/熊谷県(明治6年・1873)/第二次群馬県(明治9年・1876年~現在)
歴史 江戸日本橋から中山道14番目の宿駅で、板鼻宿と呼ばれた。村高は、「寛文郷帳」で1,224石余のうち田方582石余・畑方641石余、「元禄郷帳」では「板鼻町」と見え1,301石余、「天保郷帳」1,378石余、「旧高旧領取調帳」1,375石余。寛政3年(1791)の御用留(福田家文書)によれば、宿高1,291石余、宿内間数9町14間、家数232、但し町並み6間間口を1軒、裏町12間間口を1軒として183軒半で伝馬役を勤めた。他に、宿並外裏家百姓家数57、問屋場2、問屋場へは15日交替で2人が勤め、本陣1・脇本陣1、飯盛下女を抱える旅籠屋43、茶屋15。幕末の改革組合村高帳では、当宿ほか34か村組合の寄場となり、高は寺領を除いて1,298石余、家数317。「旧高旧領取調帳」によると、寺領は天台宗称名寺27石余、曹洞宗長伝寺26石余、時宗聞名寺22石余。助郷は、近辺の碓氷郡・群馬郡から28か村・1,853石余、加助郷は群馬郡14か村・5,283石余であった。定助郷28か村のうち、25か村は正徳3年(1713)から、残りの3か村は宝暦2年(1752)から新たに定められた(『安中市誌』)。碓氷川の川越場所は、鷹巣山の南の崖下と中宿村の間であり、貞享元年(1684)頃までには何らかの定仮橋があったとみられるが、宝暦2年(1752)夏期の仮土橋を架け、明和2年(1765)に道中奉行の命により年間の土橋を架けた。川越賃金については、相対では問題が多かったため、文政13年(1830)に公定賃金を定め、以後の基準となった。文久元年(1861)、公武合体政策のため第14代将軍徳川家茂へ嫁ぐ皇女和宮が板鼻宿の木島本陣に宿泊した。
伝来 安中市板鼻 阿部家
数量 15
年代 寛文6年(1666)9月~慶応元年(1865)6月
構造と内容 永代ニ売渡シ申家屋敷之事(屋敷1畝29歩他、金2両、寛文6年)、未之年里見領板鼻町御年貢可納割付之事(元禄16年)、議定之事(碓氷川落橋の節の川越え賃銭割合取り極め、弘化4年)、和州挙動記(下仁田戦争の戦死者名他始末書上、元治元年)、などがある。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第2集、インターネット検索目録
関連資料 参考文献:『角川日本地名大辞典10群馬県』、『群馬県姓氏家系大辞典』など
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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