資料区分 県史複製
請求番号 H9-2中世
文書群名 一之宮貫前神社文書
伝存地 富岡市
出所 富岡市一ノ宮
地名 甘楽郡一ノ宮町(近世)/北甘楽郡一ノ宮町(明治11年)/北甘楽郡一ノ宮町(明治22年)/甘楽郡一ノ宮町(昭和25年)/富岡市一ノ宮(昭和29年~現在)
旧支配 初め幕府領と旗本3氏の相給/元禄4年(1691)から旗本武田氏・仁賀保氏・恒岡氏・渡辺氏の4給/幕末期は七日市村とともに25か村の寄場/明治元年(1868)岩鼻県/同4年第一次群馬県/同6年熊谷県/同9年第二次群馬県/同11年群馬県北甘楽郡に所属
歴史 【一之宮貫前神社】延喜式内社。旧国弊中社。上野国一宮。▼祭神は、経津主神・姫大神。一宮様・貫前神社と通称する。▼文明2年(1470)2月4日の磯部兼吉一宮神宝送状写には、鏡5面のほか15種類が書き上げられている(小幡洋資氏所蔵文書/県史資料編7)。▼天文23年(1554)10月6日に小田原北条氏は、一宮修理として漆窪長尾六郎一跡内を寄進し(同前)、永禄6年(1563)12月24日には武田氏が造営のため信濃国伊那郡からの板20駄の過書を出している(貫前神社文書/群馬県史 資料編7)。▼翌年正月にも造営番匠の粮物の過書を出し(同前)、年未詳9月28日の武田信玄書状で国内錯乱であっても修補を遂げる決意を述べ(同前)、永禄10年10月5日の武田家朱印状で信濃国更級・埴科・佐久・小県4郡に家別5合ずつの籾を出させて造替を進めるようにした(同前)。▼天正2年(1574)8月14日には吾妻谷を除く西上州から家別に5合ずつの籾を出させるなど(大坪文書/同前)、武田氏は当社造替に尽力している。▼天正7年2月8日の一宮神事役他指出注文に、年75度の祭礼があり、神事役41貫文、料所恩地329貫文、他に夫免・無年貢地50貫文があった(小幡文書/同前)。▼武田勝頼も当社に武運長久を祈り太刀1腰を奉納し、造替は先例に任せて勧進すべきことを申し送っている(尾崎文庫・貫前神社文書/同前)。▼小田原北条氏も天正10年6月29日に禁制を出し(松井文庫/同前)、遷宮の際の狼藉は重科に処すべき高札を出して保護し、同12年正月25日には一宮祭に御用代物500文を代々出すことにした(貫前神社文書/同前)。▼天正19年11月、徳川家康が一宮村内で176石余の寺領を給し、のち朱印寺領となる(寛文朱印留)。
伝来 一之宮貫前神社
数量 22(簿冊2)
年代 天文20年(1551)カ2月7日~明治16年(1883)12月21日
構造と内容 県史収集複製資料として公開している本文書群は22点。№6「上杉憲政書状(一宮社修理遅延の処置に付)」〔(天文20年カ)2月〕、№3「上杉政虎書状(吉例出現に付祈祷簡心の事)」〔(永禄4年カ)11月〕、№10「武田家過所写(信州伊奈郡より一宮造営用材木の通過)」〔(永禄6年)癸亥年12月〕、№9「武田家過所写(一宮造営の番匠の粮物通過)」〔(永禄7年)甲子年1月〕、№1「武田家伝馬手形(聖僧の武州筋へ通行に付伝馬4疋)」〔(永禄9年)丙寅年2月〕、№2「武田家朱印状(一宮造替えに付更科等の地の勧進)」〔永禄10年10月〕、№11「抜鉾大神社鐘銘」〔寛永12年9月〕、№12「上野国神名帳」〔年次不詳〕、他
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第1集、当館インターネット検索目録
関連資料 『群馬県史 資料編7』、『富岡市史 原始・古代・中世編』、など(参考文献:『角川地名大辞典 10 群馬県』、『上野国郡村誌 8 甘楽郡(1)』など)
利用上の留意点 本資料は、マイクロ撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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