資料区分 県史複製
請求番号 H12-2-2近世
文書群名 南雲久雄家文書
伝存地 赤城村(現渋川市)
出所 渋川市赤城町溝呂木・南雲家
地名 上野国勢多郡溝呂木村/岩鼻県、群馬県勢多郡溝呂木村(明治4年)/熊谷県勢多郡溝呂木村(明治6年)/群馬県勢多郡溝呂木村(明治9年)/南勢多郡溝呂木村(明治11年)/南勢多郡横野村大字溝呂木(明治22年)/勢多郡横野村大字溝呂木(明治29年)/勢多郡赤城村大字溝呂木(昭和31年)/渋川市赤城町溝呂木(平成18年・2006年)
旧支配 前橋藩領/明和5年(1768)幕府領/文化9年(1812)幕府領・旗本大久保氏の相給/明治元年(1868)岩鼻県/明治4年第一次群馬県/明治6年熊谷県/明治9年第二次群馬県
歴史 村高は、「寛文郷帳」168石余、うち田方100石余・畑方68石余、「元禄郷帳」168石余、「天保郷帳」343石余、「旧高旧領」341石余。天保13年(1842)の村明細書上帳によると、幕府領68石余・旗本知行分273石余の計341石。年貢は、嘉永2年(1849)以前は検見取り、以後は定免で金納。他に御林71町(17か所)があり、下草代を納める。橋3か所の自普請あり。山麓で土地は痩せ、霜害・雪害を受けやすく、夫食拝借もあった。天保7年(1836)の田方御検見諸懸帳によると、同年の大飢饉時に困窮者30余人が餓死したとある。天台宗大蓮寺があった。村のやや西よりに沼田街道が南北に貫通し、溝呂木宿があった。本陣はあったが、脇本陣はない。問屋は、荷物の継送りを行うため人足2人・馬2疋が定め詰め、人馬御用が少ない時は半役。参勤の通行は、沼田藩主のみ。通行の際は、糸井・長者窪・樽・小室の4か村が助郷。巡見使の通行に当たっては、三原田・見立・宮田・猫・津久田の5か村が助郷にあたった。日光社参には、宇都宮まで助郷に出た。村はずれに松並木があった。文久3年(1863)、天狗党が南雲伊左衛門方へ軍資金調達に現れ、拠出した。慶応4年(1868)、会津藩士追討の新政府軍が通行した。このため見立・三原田(淀藩領分)・宮田の3か村が助郷を勤めた。農間稼ぎは、男は赤城大野に入会、薪・青草を採取、女は木綿布織り。幕末には、大蓮寺住職の舜盛、名主の南雲平八郎が寺子屋を開いた。
伝来 渋川市赤城町溝呂木・南雲家
数量 3
年代 弘化4年(1847)1月~元治元年(1864)3月
構造と内容 御用物人足帳、平豆請払帳、御用入目帳(御師・初穂料・飛脚賃・継立・浪士他入目書上)がある
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第1集、インターネット検索目録
関連資料 参考文献:『角川日本地名大辞典10群馬県』、『群馬県姓氏家系大辞典』など
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
先頭に戻ります。