| 資料区分 | 県史複製 |
| 請求番号 | H12-4-1近世 |
| 文書群名 | 斉藤敏二家文書 |
| 伝存地 | 赤城村(現渋川市) |
| 出所 | 渋川市赤城町勝保沢・斉藤家 |
| 地名 | 上野国勢多郡勝保沢村/前橋県、群馬県勢多郡勝保沢村(明治4年)/熊谷県勢多郡勝保沢村(明治6年)/群馬県勢多郡勝保沢村(明治9年)/南勢多郡勝保沢村(明治11年)/南勢多郡横野村大字勝保沢(明治22年)/勢多郡横野村大字勝保沢(明治29年)/勢多郡赤城村大字勝保沢(昭和31年)/渋川市赤城町勝保沢(平成18年・2006年) |
| 旧支配 | 前橋藩領/明治4年(1871)前橋県・第一次群馬県/明治6年熊谷県/明治9年第二次群馬県 |
| 歴史 | 村高は、「寛文郷帳」79石余、うち田方39石余・畑方40石余、「元禄郷帳」79石余、「天保郷帳」・「旧高旧領」ともに117石余。天保13年(1842)の村明細帳によると、村高117石余、反別は田6町余・畑30町余。年貢は初め検見取り、天保年間定免法となった。家数55(うち本百姓53)、人数235、馬20。農間諸職人は、鍛冶2・神職1。曹洞宗快中山宗玄寺がある。農耕は畑作が主で、粟・稗が作られた。桑は少々植えられ、養蚕が行われた。産繭は、前橋の市場に出荷され、年約20両になった。 |
| 伝来 | 渋川市赤城町勝保沢・斉藤家 |
| 数量 | 2 |
| 年代 | 元禄10年(1697)9月 |
| 構造と内容 | 覚(寺由緒・寺域・什器等覚書)、議定書(御領中作間山師渡世仲間議定)がある |
| 検索手段 | 『群馬県史収集複製資料』第1集、インターネット検索目録 |
| 関連資料 | 参考文献:『角川日本地名大辞典10群馬県』、『群馬県姓氏家系大辞典』など |
| 利用上の留意点 | 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。 |