資料区分 県史複製
請求番号 H12-5-3近世
文書群名 見立区有文書
伝存地 赤城村(現渋川市)
出所 渋川市赤城町見立
地名 上野国勢多郡見立村/淀県、群馬県勢多郡見立村(明治4年)/熊谷県勢多郡見立村(明治6年)/群馬県勢多郡見立村(明治9年)/南勢多郡見立村(明治11年)/南勢多郡横野村大字見立(明治22年)/勢多郡横野村大字見立(明治29年)/勢多郡赤城村大字見立(昭和31年)/渋川市赤城町見立(平成18年・2006年)
旧支配 前橋藩領/明和4年(1767)幕府領/天明4年(1784)淀藩領/明治4年(1871)淀県・第一次群馬県/明治6年熊谷県/明治9年第二次群馬県
歴史 村高は、「寛文郷帳」177石余、うち田方134石余・畑方43石余、「元禄郷帳」177石余、「天保郷帳」・「旧高旧領」とも218石余。明和5年(1768)の村明細帳によると、村高215石余、反別31町のうち田11町余・畑20町余。定免法であったが、不作の年は検見を願い、名々検分を受け検見役の食費は領主は支給。高入れ物は、割木6束・草7駄・縄30房・筵2枚・萱22束があり、高役諸掛として高100石につき銭25貫文納入があった。御林11か所、35人が下草代を納めた。郷蔵番を村中が交替で務め、橋1・堰6の普請は、資材・費用とも領主持ち。幕府巡見使の際は、溝呂木宿の助郷を務めた。村役人は、名主1・組頭3(明和5年は2)・百姓代1・定使1、その給分は名主は公儀より800文、村中から米2俵。組頭は村中から1貫文、定使は4貫文であった。天明3年(1783)の当田方毛揃い内見帳によると、田反別11町余のうち毛付反別8町余で他は皆無、取り毛は籾約37石、歩当たり3合以下。天明5年は、取り毛約40石という大凶作であった。文化10年(1813)も田方毛揃い内見帳に毛付6町余・籾石48石とあり大凶作であった。前々から安中宿助郷免除願いを提出していたが許可されず、文久3年(1863)、大名の激しい移動に、高100石につき464人の大助郷が当てられた。当村は務めきれず、安中宿から3分引きとして648人の不勤訴訟を受けた。示談済み口として、4か村で180両の大金を支払った。幕末、書家の永井儀八が寺子屋を開き、手習いを教授した。幕末の改革組合村高帳によると、白井村寄場組合に属し、高215石余、家数80であった。
伝来 渋川市赤城町見立
数量 2
年代 寛延元年(1748)9月
構造と内容 前橋領仲通り勢多郡見立村辰ノ五人組御改め帳(寛延元年)、上野国勢多郡見立村五人組帳(天明8年)がある
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第1集、インターネット検索目録
関連資料 参考文献:『角川日本地名大辞典10群馬県』、『群馬県姓氏家系大辞典』など
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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