資料区分 県史複製
請求番号 H12-10-2近世
文書群名 宮田区有文書
伝存地 赤城村(現渋川市)
出所 渋川市赤城町宮田
地名 上野国勢多郡宮田村/淀県、群馬県勢多郡宮田村(明治4年)/熊谷県勢多郡宮田村(明治6年)/群馬県勢多郡宮田村(明治9年)/南勢多郡宮田村(明治11年)/南勢多郡横野村大字宮田(明治22年)/勢多郡横野村大字宮田(明治29年)/勢多郡赤城村大字宮田(昭和31年)/渋川市赤城町宮田(平成18年・2006年)
旧支配 前橋藩領/明和4年(1767)幕府領/天明5年(1785)淀藩領/明治4年淀県・第一次群馬県/明治6年熊谷県/明治9年第二次群馬県
歴史 村高は、「寛文郷帳」548石余、うち田方452石余・畑方95石余、「元禄郷帳」548石余、「天保郷帳」・「旧高旧領」とも640石余。元禄8年(1695)検地水帳によると、高548石余・反別48町余(田18町余・畑30町余)。弘化3年(1846)御成ヶ割付之事によると、高640石余・反別64町余、年貢は米203石余・永44貫文余、小物成として糠・藁・縄・筵、運上として林下草・鉄炮役・水車冥加・簗運上・夫役代が課せられ、他に口米・口永・御蔵米入用・六尺給米・御伝馬宿入用・桑永・漆永・楮永が納められた。幕府巡見使の通行に際しては、溝呂木宿への加助郷があった。文久元年(1861)和宮降嫁、文久3年には幕末動乱の大名移動のため安中宿大助郷が課された。前者は、人足218人・馬19疋が割付られ79人が出役し不足分73両を支払った。後者は務められず、淀藩領4か村は安中宿から訴えられ3分引き5,398人分・180両の人足賃を支払った。家数は、享保18年(1733)102、文久3年57、慶応4年(1868)97。人数は、元禄12年492(男274・女218)、享保18年526、万延元年(1860)422(男226・女194)。農間職人として猟師3。享保9年(1724)の筏訴訟文書に、筏乗り21人が見える。河岸に筏問屋が1軒あり、同年認可された樽河岸と訴訟に及び、同15年に正式に認められ営業した。寺は、天台宗宗泊寺があったが、幕末には無住となった。幕末の改革組合村高帳では、白井村寄場組合に属し、高640石余、家数80。
伝来 渋川市赤城町宮田
数量 18
年代 元禄8年(1695)2月~明治10年(1877)3月
構造と内容 上野国勢多郡宮田村検地水帳 壱冊(元禄8年)、惣村中相定一札(宮田村村役人給他、明和6年)、一札之事(安中宿助郷人馬不勤出入済口証文、元治元年)などがある
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第1集、インターネット検索目録
関連資料 参考文献:『角川日本地名大辞典10群馬県』、『群馬県姓氏家系大辞典』など
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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