資料区分 県史複製
請求番号 H13-4-3近世
文書群名 船津恒平家文書
伝存地 富士見村(現前橋市)
出所 前橋市富士見町原之郷・船津家
地名 上野国勢多郡原之郷村/前橋県、群馬県勢多郡原之郷村(明治4年)/熊谷県勢多郡原之郷村(明治6年)/群馬県勢多郡原之郷村(明治9年)/南勢多郡原之郷村(明治11年)/南勢多郡富士見村大字原之郷(明治22年)/勢多郡富士見村大字原之郷(明治29年)/前橋市富士見町原之郷(平成21年・2009年~現在)
旧支配 寛永12年(1635)前橋藩領/明治4年前橋県・第一次群馬県/明治6年熊谷県/明治9年第二次群馬県
歴史 村高は、「寛文郷帳」624石余、うち田方472石余・畑方152石余、「元禄郷帳」624石余、「天保郷帳」・「旧高旧領」とも850石余。元禄2年(1689)の水帳によると、田方35町7反余・畑方48町9反余・屋敷5町5反余の合計90町2反余(『富士見村誌続編』)。天保12年(1841)の明細帳によると、村役人は名主1・組頭8、給分は名主が銭16貫800文と高役2町引き、組頭は1人につき3貫文、反別は150町余のうち田35町余・畑114町余、他に高外反別3町余。畑作物は大豆・粟・稗・菜・大根。農間稼ぎは女稼ぎとして糸・綿づくり、他に養蚕も行い、糸と綿で年3両ほどを前橋の市で売る。家数210、人数788、馬94。村内出生の牢人は、本道医師1、大工・屋根葺き1(『富士見村誌』)。慶長6年(1601)平岩親吉が甲府へ去り、代わって川越から酒井重忠が前橋城主となり、家老の川合勘解由左衛門が当地を知行地とし、当村の堀之内に住んだ。勘解由左衛門は、水の乏しい原之郷や隣村の横室の村々を開田し、少ない灌漑用水の利用について詳細に慣行を制度化した。天保12年(1841)の明細帳にも用水溜井堤4・堰40があげられ、用水の確保に苦心していたことがうかがえる(『富士見村誌』)。地内の九十九山古墳(前方後円墳)の近くに、明治初年、日本の三老農の1人と讃えられた船津伝次平翁の生家と墓所がある。同家は名主などを務め、伝次平の父利兵衛路雄は寺子屋の師匠としても多くの弟子を教え、その寺子屋は九十九庵と呼ばれた。伝次平は、天保3年(1832)に生まれ、若くして名主を務め、赤城山の植林などに貢献。農業・養蚕方法の改良を試みた。明治10年(1877)内務卿大久保利通に認められ内務省に出仕、駒場農学校の教師に任じられ、農商務省技師を経て、全国を回って農事改良の普及に尽力した(『郷土の人船津伝次平』)。
伝来 前橋市富士見町原之郷・船津家
数量 74
年代 元禄元年(1688)~明治6年(1873)12月
構造と内容 村主年暦記(名主等書上、元禄元8年)、前橋領中通り原ノ郷午ノ五人組御改め帳(元禄15年)、御林道松御改帳(明和9年)、故船津伝次平翁遺稿(精要算法呑込写、嘉永3年)などがある。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第1集、インターネット検索目録
関連資料 参考文献:『角川日本地名大辞典10群馬県』、『群馬県姓氏家系大辞典』など
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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