資料区分 |
県史複製 |
請求番号 |
H12-2中世 |
文書群名 |
狩野勝次郎家文書 |
伝存地 |
赤城村(現渋川市) |
出所 |
旧勢多郡赤城村津久田(現渋川市赤城町津久田) |
地名 |
勢多郡津久田村(近世)/南勢多郡津久田村(明治11年)/南勢多郡敷島村大字津久田(明治22年)/勢多郡敷島村大字津久田(明治29年)/勢多郡赤城村大字津久田(昭和31年)/渋川市赤城町津久田(平成18年~現在) |
旧支配 |
初め大胡藩領/元和4年(1818)白井藩領/明暦元年(1655)下総国古河藩領/万治元年(1658)幕府領/宝永4年(1707)幕府・旗本保々氏の相給/寛保3年(1743)前橋藩・保々氏の相給/延享4年(1747)幕府・旗本保々氏の相給/嘉永2年(1849)前橋藩・旗本保々氏の相給/幕末期は白井村寄場組合/明治元年(1868)旧旗本領は岩鼻県/同4年前橋藩領は前橋県、第一次群馬県/同6年熊谷県/同9年第二次群馬県/同11年群馬県南勢多郡に所属 |
歴史 |
【津久田】「津久田」の地名は、荘園の佃耕作に由来する。中世の長講堂領拝志荘は、この地域を中心にして存在したと考えられ、石祠などに「林庄」と記銘したものがある。▼字寄居の沼尾川に臨む断崖上に白井城の支城津久田城があった。天正年間頃の城主狩野越後守康行は狩野々地区の住人で、系図(溝呂木・狩野直之助氏蔵)によると、三浦氏の末裔で伊豆狩野が本貫の地という。▼【中世 津久田】戦国期文書にも見える地名。勢多郡。天正10年(1582)と推定される年未詳霜月12日の須田勘衛宛て北条氏直感状(須田家文書/群馬県史 資料編7)によれば、「去月廿七日沼田衆向津久田相動砌」とあり、沼田の真田勢が小田原北条氏方の津久田城を攻めたことがわかる。▼この戦いについては、同文の須田弥七郎宛ての感状(同前)とほぼ同文の狩野大学助宛ての感状がある(狩野家文書/群馬県史資料編7)。▼同13年と推定される年未詳閏12月26日の北条氏照判物(狩野勝次郎家文書/同前)によれば、「依津久田之城房州(北条氏邦)、自手前有子細請取候」とあって、津久田城は氏邦から氏照に引き継がれたことがわかる。 |
伝来 |
狩野勝次郎家 |
数量 |
4(簿冊1) |
年代 |
天正10年(1582)閏12月26日~天正17年(1589)12月11日 |
構造と内容 |
県史収集複製資料として公開している本文書群は4点。№1「北条氏照判物(南雲知行を狩野大学助他地衆に任す事)」〔(天正10年)閏12月〕、№2「北条氏邦書状(阿曽番替に付阿久沢・赤堀衆の城番配置の事)」〔(天正17年)12月〕、№3「大日本開闢之事(天皇書上及び家紋の由来他)」〔年次不詳〕、№4「狩野系図」〔年次不詳〕 |
検索手段 |
『群馬県史収集複製資料』第1集、当館インターネット検索目録 |
関連資料 |
『群馬県史 資料編7』、『群馬県勢多郡敷島村誌』、など(参考文献:『角川地名大辞典 10 群馬県』、『上野国郡村誌 2 勢多郡(2)』など) |
利用上の留意点 |
本資料は、マイクロ撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。 |