資料区分 |
県史複製 |
請求番号 |
H14-6-2近世 |
文書群名 |
登坂正久家文書 |
伝存地 |
大胡町(現前橋市) |
出所 |
前橋市河原浜町・登坂家 |
地名 |
上野国勢多郡河原浜村/岩鼻県・岩槻県、群馬県勢多郡河原浜村(明治4年)/熊谷県勢多郡河原浜村(明治6年)/群馬県勢多郡河原浜村(明治9年)/南勢多郡河原浜村(明治11年)/南勢多郡大胡村大字河原浜(明治22年)/勢多郡大胡村大字河原浜(明治29年)/勢多郡大胡町大字河原浜(明治32年)/前橋市河原浜町(平成21年・2009年~現在) |
旧支配 |
初め大胡藩領/元和3年(1617)前橋藩領/明和5年(1768)幕府領/天明5年(1785)前橋(川越)藩領/天保14年(1843)幕府領/旗本小笠原氏領と武蔵国岩槻藩領/明治元年(1868)岩鼻県・武蔵国岩槻藩領/明治4年岩鼻県・岩槻県、第一次群馬県/明治6年熊谷県/明治9年第二次群馬県 |
歴史 |
村高は、「寛文郷帳」265石余のうち田方145石余・畑方120石余、「元禄郷帳」273石余、「天保郷帳」・「旧高旧領」ともに530石余。正徳2年(1712)の村明細帳(河原浜区有文書、『県史資料編13』所収)によると、高521石余、反別94町のうち、田方38町7反余・畑55町3反余。田には干鰯を肥料として、早生・中手・北国稲・やろくを植え、畑には粉糠を肥料として麦・小麦・小角豆・菜・大根を栽培。家数93・人数388。なお、この村明細帳には、「藪三反廿歩 御城囲之内之れ有り候」「屋敷壱反弐畝歩 侍屋敷除地」と記され、牧野氏が入城した大胡城及び城下武家地に村内の一部が宛てられていたことがうかがえる。前橋藩領となっても酒井氏時代には大胡城代が置かれ武家地などは維持されたが、寛延年間(1748~1751)松平氏は城代を廃し、武家屋敷も取り払われた。寺院は、天台宗応昌寺・真言宗玉蔵寺がある。幕末の改革組合村高帳には、二之宮村寄場組合に属し、養林寺領を除いて、高521石余、家数66。 |
伝来 |
前橋市河原浜町・登坂家 |
数量 |
31 |
年代 |
明暦2年(1656)2月~明治4年(1871)7月 |
構造と内容 |
御家中小路切并在郷所附石高帳(明暦2年)、人別御改帳(天保2年)、御用日記留(天保9年)などがある。 |
検索手段 |
『群馬県史収集複製資料』第1集、インターネット検索目録 |
関連資料 |
参考文献:『角川日本地名大辞典10群馬県』、『群馬県姓氏家系大辞典』など |
利用上の留意点 |
本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。 |