資料区分 |
県史複製 |
請求番号 |
H12-4中世 |
文書群名 |
永井勝衛家文書 |
伝存地 |
赤城村(現渋川市) |
出所 |
旧勢多郡赤城村三原田(現渋川市赤城町三原田) |
地名 |
勢多郡三原田村(近世)/南勢多郡三原田村(明治11年)/南勢多郡横野村大字三原田(明治22年)/勢多郡横野村大字三原田(明治29年)/勢多郡赤城村大字三原田(昭和31年)/渋川市赤城町三原田(平成18年~現在) |
旧支配 |
初め前橋藩領/明和4年(1767)幕府と前橋藩の相給。天明5年(1885)山城国淀藩と前橋藩の相給。明和4年の分郷により幕府領(後の淀藩領)は上三原田、前橋藩領は三原田と通称/幕末期は白井村寄場組合に属す/明治4年(1871)淀県・前橋県、第一次群馬県/同6年熊谷県/同9年第二次群馬県/同11年群馬県南勢多郡に所属 |
歴史 |
【三原田】下三原田とも通称される。興禅寺墓地には、応永3年(1396)~長享元年(1487)の宝筺印塔が12基あり、境内を含むこの地域は、白井城の支城三原田城である。▼当地の永井家には当寺の文書が所蔵されている。樽の須田家が所蔵する永井権兵衛書状には、永井氏以前三原田義高が居住したとあるが、これは永禄4年(1561)に成立したと推定される年月日未詳の関東幕注文(上杉家文書/群馬県史 資料編7)に白井衆と記されている三原田孫七郎がそれであろう。▼三原田氏が、この地域の開拓豪族であったと考えられる。▼【中世 三原田】戦国期に見える地名。勢多郡のうち。▼「松陰私話」第一によれば、岩松家純の子明純は新田を出奔して西国行脚の旅に出たが、その時横瀬国繁の弟金竜和尚は「三原田興禅寺」まで送っている(群馬県史 資料編5)。これは文明8年(1476)のことと考えられる。 |
伝来 |
永井勝衛家 |
数量 |
6(簿冊1) |
年代 |
元亀2年(1571)3月2日~寛文6年(1666)10月1日 |
構造と内容 |
県史収集複製資料として公開している本文書群は6点。№1「某朱印状(下河内・横手の地宛行)」〔元亀2年3月〕、№4「許状(武田信玄流軍法の相伝)」〔寛文6年10月〕、№5「〔武田信玄流軍法秘伝書〕」〔寛文6年10月〕、№2「長尾景広判物(望み通り受領許可)」〔7月4日〕、№3「長尾景光書状(昌賢木像及び8代分位牌を羽林寺へ戻す件)」〔8月5日〕、№6「〔年頭挨拶状〕」〔1月22日〕 |
検索手段 |
『群馬県史収集複製資料』第1集、当館インターネット検索目録 |
関連資料 |
『群馬県史 資料編5』、『群馬県史 資料編7』、『群馬県勢多郡横野村誌』、など(参考文献:『角川地名大辞典 10 群馬県』、『上野国郡村誌 2 勢多郡(2)』など) |
利用上の留意点 |
本資料は、マイクロ撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。 |