資料区分 県史複製
請求番号 H15-3-1近世
文書群名 北爪芳男家文書
伝存地 宮城村(現前橋市)
出所 前橋市柏倉町 北爪芳男家
地名 勢多郡柏倉村/東柏倉村・西柏倉村に分村(貞享2年=1685年)/東西が合併し勢多郡柏倉村(明治5年)/南勢多郡柏倉村(明治11年)/南勢多郡宮城村大字柏倉(明治22年)/勢多郡宮城村大字柏倉(明治29年)/前橋市柏倉町(平成16年)
旧支配 初め前橋藩領/明和6年(1769)幕府領/天明6年(1786)山城国淀藩領/明治4年(1871)淀県・第一次群馬県/明治6年熊谷県/明治9年第二次群馬県
歴史 村高は、「寛文郷帳」413石余で、うち田方344石余・畑方68石余、貞享2年(1685)に東柏倉村・西柏倉村に分村。東柏倉村は、「元禄郷帳」128石余、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに288石余。約150年間に160石増。盛んな新田開発、新畑開発によるもの。当村で行われた新田開発は、享保元年(1716)までに田2町9反余・畑47町2反余。文化9年(1812)前後の度重なる出水により、かなりの面積が年貢免除となった。嘉永6年(1853)の「組合村々議定書」(「苗ヶ島区有文書/『群馬県史 資料編13』所収)によると、山田郡・勢多郡53か村で取り決めた耕作日雇い並びに諸職人手間代は、大工職金1分につき8日、左官職同7日、黒鍬仕事師同9日、耕作日雇い4月~8月金1分につき10人、麦摺り扱き女日雇い同13人、春田植え・麦田植えはその所の仕来りより2割下げ、となっている。一方、西柏倉村は、「元禄郷帳」285石余、「天保郷帳」362石余、「旧高旧領取調帳」262石余。元禄2年(1689)の水帳によると、田22町2反余・畑9町8反余・屋敷1町3反余。宗門人別帳などによる戸数・人数は、延享元年(1744)63・268、安永3年(1774)66・288、天明2年(1782)67・292。東柏倉村・西柏倉村の惣鎮守は、東柏倉村の諏訪上下大明神で、別当は西柏倉村の東昌寺である。ここの祭事は、東と西が年番で交互に務め、同一の氏子として祭礼に参加し、社殿などの修理も両村で申し合わせ、寄附で賄った。近世期の建造物・阿久沢家住宅が現存している。
伝来 前橋市柏倉町 北爪芳男家
数量 4
年代 宝暦14年(1764)3月~天保13年(1842)3月
構造と内容 五人組御改帳(宝暦14年)、上野国勢多郡西柏倉村真言宗切支端宗門御改人別帳(天保13年)、八幡縁起(年次不詳、2点)がある。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第1集、インターネット検索目録
関連資料 参考文献:『角川日本地名大辞典10群馬県』、『群馬県姓氏家系大辞典』など
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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