資料区分 |
県史複製 |
請求番号 |
H16-7-1近世 |
文書群名 |
女渕区有文書 |
伝存地 |
粕川村(現前橋市) |
出所 |
前橋市粕川町女渕 女渕区 |
地名 |
勢多郡女渕村/南勢多郡女淵村(明治11年)/南勢多郡粕川村大字女淵(明治22年)/勢多郡粕川村大字女淵(明治29年)/前橋市粕川町女淵(平成16年) |
旧支配 |
初め大胡藩領/元和4年(1618)前橋藩領/明和4年(1767)幕府領/安永8年(1779)出羽国松山(松嶺)藩領/明治元年(1868)岩鼻県/明治4年(1871)第一次群馬県/明治6年熊谷県/明治9年第二次群馬県 |
歴史 |
寛永元年(1624)、当村(女渕村)は新屋村と込皆戸村を分村したという。村高は、「寛文郷帳」1,466石余で、うち田方821石余・畑方644石余、「元禄郷帳」933石余、「天保郷帳」1,134石余、「旧高旧領」1,016石余。他に粕川組として118石余。集落は、女渕城近くの宿・中宿・新宿などからなる当村、及び南(粕川組)・村南に分かれる。粕川組は、元和年間(1615~1624)に三河国から来た鈴木大学義信などが開墾し定住したものという。寛延2年(1749)の銘細帳(『粕川村誌』)によると、正徳3年(1713)に検地が行われ、村高1,122石余のうち田45町余・畑61町余、貢租は年貢のほか1か年高10石につき永580文ほどの高役を務めた。本百姓115・水呑百姓2、人数572のうち男314・女258。牢人2・鍛冶1・紺屋1・山伏1。百姓屋敷は108。村役人は、名主1・組頭5。御蔵番は、定番・夜番とも代わり番でつとめた。田には、ほっこく・ひえず・べにぐろ・めぐろを作り、畑には大麦・小麦・大豆・粟・稗・芋などを作った。田の肥料には、青豆・干鰯・刈り草・麦藁などを使い、畑の肥料には粉糠・油粕・刈り草などを使った。養蚕は、村中で年30両ほど、糸・繭は大胡・大間々・伊勢崎にて売買した。神社は、御霊神社。寺院は、寺子屋を営んだ天台宗赤城山多福寺、真言宗豊山派大悲山千殊院、女渕城主新居刑部右衛門の開基とされる曹洞宗赤城山竜光寺、真言宗正宝寺(後に廃寺)があった。天保9年(1838)の諸商渡世向取調書上帳によると、居酒屋6・穀物水油商1・髪結渡世1・煮売り渡世1(『粕川村誌』)。 |
伝来 |
前橋市粕川町女渕 女渕区 |
数量 |
49 |
年代 |
享和3年(1803)2月~明治43年(1910)7月 |
構造と内容 |
〔小沼水引方・粕川用水引方争論内済証文〕(享和3年)、〔女渕村農間商・諸職人渡世書上帳〕(文政10年)、〔不世柄につき徒党取締など請書〕(天保7年)、〔三夜沢社人、論所裁許絵図面中立木売り払い一件取り扱い証文〕(嘉永2年)、〔赤城山小沼普請入用割合訴訟一件入用議定書〕(慶応3年)、女渕村誌写 全(明治43年)などがある。 |
検索手段 |
『群馬県史収集複製資料』第1集、インターネット検索目録 |
関連資料 |
参考文献:『角川日本地名大辞典10群馬県』、『群馬県姓氏家系大辞典』など |
利用上の留意点 |
本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。 |