資料区分 県史複製
請求番号 H15-2中世
文書群名 奈良原安夫家文書
伝存地 宮城村(現前橋市)
出所 旧勢多郡宮城村三夜沢(現前橋市三夜沢町)
地名 勢多郡三夜沢村(江戸期)/南勢多郡三夜沢村(明治11年)/南勢多郡宮城村大字三夜沢(明治22年)/勢多郡宮城村大字三夜沢(明治29年)/前橋市三夜沢町(平成16年~)
旧支配 近世期を通じて赤城神社領/明治4年(1871)前橋県、第一次群馬県/明治6年熊谷県/明治9年~第二次群馬県
役職等 三夜沢赤城神社神主、他
歴史 【中世 三夜沢】南北朝期から見える地名。勢多郡のうち▼。「神道集」の「卅一、上野国勢多郡ノ鎮守赤城大明神事」に、「猶モ此山ノ名残惜クシテ、小沼沢ニ三ヶ日音逗留有ケリ、故ニ今ノ代ニハ此の所ヲハ三夜沢ト申ケル」と見え、当地名の由来が記されている。▼赤城神社は、現在地の東方1kmの場所から移ったとされ、そこを元三夜沢という。昭和40年(1965)にこの付近で宇通遺跡が発見され、これが初期の赤城神社とする説もある。▼下って、永禄4年(1561)12月27日の上杉輝虎(謙信)制札(当家文書/群馬県史 資料編7)には、「於妙沢小屋越関之諸軍勢、濫妨狼藉堅停止之」とあり、「妙沢」が当地のことと考えられる。この前年は、謙信の関東出兵の年にあたり、小田原北条氏と戦っている。▼この制札の奉行人は、河田長親と北条高広であるが、高広はのちに上杉方の関東での拠点であった厩橋城に拠った。また、高広は三夜沢赤城神社を尊崇した。▼永禄5年頃と推定される年未詳3月9日の上杉輝虎書状(同前)には、「赤城山三夜沢、任先規守護不入之儀、得其意候」と見え、当地を守護不入の地とすることを赤城山三夜沢神主に伝えている。その地の文書にも赤城神社を三夜沢宮、あるいは三夜沢大明神と称し、神官奈良原氏を三夜沢神主とするものが多くある。▼永禄9年10月12日の由良成繁制札(同前)によると、「於大胡領三夜沢、濫妨狼藉堅停止畢」と見え、当地が大胡領に属していたことが知られる。元亀3年(1572)10月26日の応昌寺(現前橋市河原浜町)に宛てた北条高広判物(善昌寺文書/『群馬県古城塁址の研究補遺上』)によれば、「三夜沢、柏倉所領両方共応昌寺へ相渡申候・・・守護不入之儀可為尤候」とあり、当地への守護不入を前提として応昌寺に渡している。▼天正16年(1588)閏5月10日の北条氏照判物(当家文書/群馬県史 資料編7)によると、小川五郎右衛門尉なる人物が赤城神社に対して訴訟を企てたところ敗訴になったとあるが、小川は「自古来三夜沢住所之者之由候間、召返従前々拘候田地屋敷相渡尤候」と見え、田地・屋敷を返付するよう赤城山三夜沢神主に命じている。
伝来 奈良原安夫家
数量 41(簿冊1)
年代 永禄3年(1560)9月~慶安2年(1649)8月、他
構造と内容 県史収集複製資料として公開している本文書群は41点。№31「上杉憲政判物(越山に付立願依頼)」〔永禄3年9月〕、№23「新居長重寄進状(御穀免大足の田3段の寄進)」〔永禄4年10月〕、№9「上杉家制札(妙沢小屋越関の軍勢濫妨狼藉の禁)」〔永禄4年12月〕、№10「北条高広書状(三夜沢宮中にて濫妨狼藉の禁)」〔(永禄5年)11月〕、№32「長野氏業書状(妙法坊篭山の際の懇切に感謝)」〔(永禄5年カ)9月〕、№6「上杉輝虎書状(先規通り三夜沢の守護不入許可)」〔(永禄5年カ)3月〕、№14「某制札(三夜沢仁王堂内での商売役銭停止の事)」〔永禄8年9月〕、№1「北条高広判物(柏倉内深須修理亮分など合9貫200文の寄進)」〔永禄9年11月〕、№11「由良成繁制札(三夜沢内にて濫妨狼藉の禁)」〔永禄9年10月〕、№4「某制札(参詣人の喧嘩口論の禁など3カ条の禁制)」〔永禄12年閏5月〕、など
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第1集、当館インターネット検索目録
関連資料 『群馬県史 資料編7』、『宮城村誌』、など(参考文献:『角川地名大辞典 10 群馬県』、『上野国郡村誌3 勢多郡(3)』など)
利用上の留意点 本資料は、マイクロ撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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