資料区分 県史複製
請求番号 H17-1中世
文書群名 善昌寺文書
伝存地 新里村(現桐生市)
出所 旧勢多郡新里村新川(現桐生市新里町新川)
地名 勢多郡新川村(江戸期~)/南勢多郡新川村(明治11年)/南勢多郡新里村大字新川村(明治22年)/勢多郡新里村大字新川(明治29年)/桐生市新里町新川(平成17年~現在)
旧支配 天正18年(1590)徳川氏領/承応2年(1653)村高の内500石1斗6升旗本鳥居権之助知行所/元禄15年(1702)村高の内246石旗本平岡市左衛門知行所/元禄16年村高の内253石8斗4升旗本横瀬駿河守知行所、以後旗本3氏の相給/明治元年(1868)岩鼻県/明治4年前橋県、第一次群馬県/同6年熊谷県/同9年第二次群馬県
役職等 天台宗。新光太平山妙珠院と号す。
歴史 【善昌寺】本尊は、阿弥陀如来。大同年間に最澄の弟子宥海が創建したと伝えられ、当初は天台宗であったが、応安6年(1373)に長楽寺塔頭大通庵に寄進されて、臨済宗に転じた(「長楽寺文書」/群馬県史 資料編5)。▼境内には、徳治3年(1308)・正和4年(1315)の銘をもつ板碑、中世の石仏、船田善昌が新田義貞の首を持ち帰り供養したとされる五輪塔が現存する。▼その後、近世前期に長楽寺が天台宗となるに及んで、当寺も再び天台宗に帰属した。元禄年間以降、朱印地17石が寺領として安堵された(上野国一国高辻)。▼天明6年(1786)頃の本末帳には、朱印高17石、寺中1か寺、末寺5か寺、門徒6か寺(うち2か寺は退転)とある(「本末帳集成」)。近世を通して当寺は、華蔵寺・大光寺・清泉寺・養寿寺とともに、長楽寺の赤城山南麓「山の五寺」として末寺中で重視されるようになった。▼寺宝としては、天海の書状がある。
伝来 善昌寺
数量 3(簿冊1)
年代 建武2(1335)年10月~応仁2(1468)年3月3日
構造と内容 県史収集複製資料として公開している本文書群は3点。№1「新田義貞御判御教書(尊氏追討の沙汰、差出義貞、宛て船田長門入道)」〔建武2(1335)年10月〕、№2「天海書状(開山の祝儀他、差出南光坊天海)」(10月21日)、№3「〔善昌寺由緒・旧記写〕」〔応仁2(1468)年3月3日〕、の3点である。№3には、当院七不思議、頼朝石塔、戒名過去帳についても記されている。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第1集、当館インターネット検索目録
関連資料 『群馬県史 資料編5』、『新里村誌』、『新里村百年史』、など(参考文献:『角川地名大辞典 10 群馬県』、『上野国郡村誌3 勢多郡(3)』など)
利用上の留意点 本資料は、マイクロ撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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