資料区分 |
県史複製 |
請求番号 |
H19-1-4近世 |
文書群名 |
小林光家文書 |
伝存地 |
勢多郡東村(現みどり市) |
出所 |
みどり市東町荻原・小林光家 |
地名 |
上野国勢多郡荻原村/岩鼻県勢多郡荻原村(明治元年)、群馬県勢多郡荻原村(明治4年)/熊谷県勢多郡荻原村(明治6年)/群馬県勢多郡荻原村(明治9年)/南勢多郡荻原村(明治11年)/南勢多郡東村大字荻原(明治22年)/勢多郡東村大字荻原(明治29年)/みどり市東町荻原(平成18年・2006年~現在) |
旧支配 |
初め幕府領/寛文元年(1661)館林藩領/のち再び幕府領/明治元年(1868)岩鼻県/明治4年(1871)第一次群馬県/明治6年熊谷県/明治9年第二次群馬県 |
歴史 |
村高は、「寛文郷帳」186石余のうち田方17石余・畑方169石余、「元禄郷帳」・「天保郷帳」・「旧高旧領」ともに273石余。銅山街道沿いの村のため、銅の継ぎ送り人夫役が課せられ、その勤め方賃銭は、文政元年(1818)では永1貫220文であった(高瀬家文書、『勢多郡誌』)。鎮守は、諏訪神社で、健御名方命を祭神とする。天台宗善雄寺は、延暦寺の末寺とされる。創建年次は不明。幕府から寺領11石2斗の朱印を賜った。第22世の僧尭慶は、文化11年(1814)生きながら墓穴に入り入滅、穴薬師尊として祀られている。修験寺として文殊院などがあったが、特に文殊院は上野国における本山派修験の有力な寺院であった。「天保巡見日記」には、水沼村を出て、「壱里程行きて荻原村なり、この辺すべて渡良瀬川添い山坂道、山水の奇観を尽くせり、一景を図す」とあり、「勢多郡荻原村遠望之図」2図が描かれている(『群馬県史 資料編13』)。幕末の改革組合村高帳には、水沼村寄場組合に属し、高261石余、家数87。 |
伝来 |
みどり市東町荻原・小林光家 |
数量 |
106 |
年代 |
寛永9年(1632)5月~明治5年(1872)10月 |
構造と内容 |
定(霞中の行者講勤めの事他、寛永9年)、勢多郡之内拾四ケ村之覚(霞村々、宝永4年)、証状(異国船渡来に付葛城嶺千日行修行、嘉永7年)などがある。 |
検索手段 |
『群馬県史収集複製資料』第1集、インターネット検索目録 |
関連資料 |
参考文献:『角川日本地名大辞典10群馬県』、『群馬県姓氏家系大辞典』など |
利用上の留意点 |
本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。 |