資料区分 県史複製
請求番号 H20-6-1近世
文書群名 高瀬光重家文書
伝存地 榛名町(現高崎市)
出所 高崎市榛名町中里見 高瀬家
地名 上野国碓氷郡中里見村(近世)/高崎県碓氷郡中里見村(明治4年・1871年7月)/群馬県碓氷郡中里見村(明治4年10月)/熊谷県碓氷郡中里見村(明治6年)/群馬県碓氷郡中里見村(明治9年)/碓氷郡里見村大字中里見(明治22年)/群馬郡榛名町大字中里見(昭和30年・1955年)/高崎市中里見町(平成18年・2006年~現在)
旧支配 初め高崎藩領・旗本柴田氏領の相給(近世)/前橋藩領200石・その他旗本柴田氏領=枝村塚崎村か(元和5年・1619年)/前橋藩領200石、枝村塚崎村=旗本大久保氏領・牧村氏領・竹田2氏領の4氏相給(元禄11年・1698年)/中里見村・塚崎村とも篠塚藩領(延享4年・1747年)/上里見藩領(寛延元年・1748年)/幕府領(明和4年・1767年)/高崎藩領(安永9年・1780年)/高崎県(明治4年・1871年7月)/第一次群馬県(明治4年・1871年10月)/熊谷県(明治6年・1873年)/第二次群馬県(明治9年・1876年~現在)
歴史 寛永18年(1641)の検地帳(萩原家文書)によると、田35町余・畑45町余・屋敷4町余。村高は、「寛文郷帳」864石余、うち田方461石余・畑方403石余、「元禄郷帳」878石余。宝暦8年(1758)の「上州御領地村々御年貢米永辻帳」(中曽根家文書)によると、塚崎村分の高685石余・名主林右衛門は米147石余・永52貫余、中里見村分の高202石余・名主太郎平は米87石余・永12貫余、「天保郷帳」「旧高旧領取調帳」とも888石余。中里見村・塚崎村ともに中山道板鼻宿大助郷村であったが、塚崎村は元禄7年(1694)以降助郷免除となった。ところが、正徳2年(1712)烏川北岸の三子沢村が助郷免除・塚崎村との差し替えを願い出て、翌正徳3年両村とも石高割りの助郷とする裁許がおりた(広神家文書)。享保13年(1728)板鼻宿当分助郷、延享3年(1746)上里見村神山宿増助郷、宝暦12年(1762)に板鼻宿の助郷を免除され神山宿定助郷となった(中曽根家文書)。しかし、明和4年(1767)上里見藩の転封後、再び板鼻宿増助郷村となった。中里見村の秣場は猪ノ毛山であったが、秣場のない塚崎村は、札入りし利用していた。延宝4年(1676)以降15年間、塚崎村などの盗伐があるとして、上里見村・中里見村・下里見村と札入りの塚崎村・八幡村・剣崎村の間で争論が起き、元禄3年(1690)塚崎村の入会を認める裁許が出された(広神家文書)。幕末の改革組合村高帳によると、板鼻宿寄場組合に属し、塚崎村の高685石余、家数86、中里見村の高203石余・家数30。
伝来 高崎市榛名町中里見 高瀬家
数量 3
年代 延宝4年(1676)6月~安政6年(1859)3月
構造と内容 乍恐以書付御訴訟申上候御事(上里見村間野山の秣場出入、延宝4年)、乍恐以書付御訴訟申上候御事(中里見村内いのけ山秣場出入、貞享5年)、差上申一札之事(板鼻宿借家人の盗み・博奕一件下知請書)がある。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第1集、インターネット検索目録
関連資料 参考文献:『角川日本地名大辞典10群馬県』、『群馬県姓氏家系大辞典』など
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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