資料区分 県史複製
請求番号 H20-7-1近世
文書群名 富沢利男家文書
伝存地 榛名町(現高崎市)
出所 高崎市榛名町下里見 富沢家
地名 上野国碓氷郡下里見村(近世)/高崎県碓氷郡下里見村(明治4年・1871年7月)/群馬県碓氷郡下里見村(明治4年10月)/熊谷県碓氷郡下里見村(明治6年)/群馬県碓氷郡下里見村(明治9年)/碓氷郡里見村大字下里見(明治22年)/群馬郡榛名町大字下里見(昭和30年・1955年)/高崎市下里見町(平成18年・2006年~現在)
旧支配 初め高崎藩領(近世)/前橋藩領(元和5年・1619年)/幕府領(延享4年・1747年)/篠塚藩領(延享4年・1747年)/上里見藩領(寛延元年・1748年)/幕府領(明和4年・1767)/高崎藩領(安永9年・1780年)/高崎県(明治4年・1871年7月)/第一次群馬県(明治4年・1871年10月)/熊谷県(明治6年・1873年)/第二次群馬県(明治9年・1876年~現在)
歴史 村高は、「寛文郷帳」531石余、うち田方269石余・畑方262石余。宝暦8年(1758)の「上州御領地村々御年貢米永辻帳」(中曽根家文書)によると、高726石4斗余、米174石余・永80貫余。「天保郷帳」「旧高旧領取調帳」ともに726石余。延享元年(1744)の五人組改帳(富沢家文書)によると、家数25・人数158。天和3年(1683)、中山道板鼻宿に馬組11組、その他歩き役が定められた(里見家文書)。以降、定助郷となり、延享3年(1746)上里見村神山宿増助郷にもなるが(坂爪家文書)、宝暦12年(1762)板鼻宿定助郷を免除され(中曽根家文書)、神山宿定助郷となった。しかし、明和4年(1767)上里見藩の転封後、再び板鼻宿定助郷村となった。下里見村の秣場入会野は堂尾根山であるが、中里見村の猪ノ毛山・上里見村真野山の各秣場とともに延宝4年(1676)以降15年間、中里見村の枝村である塚崎村などの盗伐があるとして、上里見村・中里見村・下里見村と札入りの塚崎村・八幡村・剣崎村の間で争論が起き、元禄3年(1690)塚崎村の入会を認める裁許が出された(広神家文書)。幕末の改革組合村高帳によると、板鼻宿寄場組合に属し、高726石余、家数149。
伝来 高崎市榛名町下里見 富沢家
数量 14
年代 天正□年5月~明治元年(1868)11月
構造と内容 武田家感状(松枝における戦功神妙に付、天正□年)、西上州之内上室田田畑水帳(寛永9年)、室田村名主申□(榛名山と室田村の秣場山論、元禄15年)、などがある。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第1集、インターネット検索目録
関連資料 参考文献:『角川日本地名大辞典10群馬県』、『群馬県姓氏家系大辞典』など
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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