資料区分 県史複製
請求番号 H21-1-1(1)近世
文書群名 倉渕村教育委員会文書
伝存地 倉渕村(現高崎市)
出所 高崎市倉渕町三ノ倉 旧倉渕村教育委員会
地名 上野国群馬郡三野倉村(近世)/岩鼻県群馬郡三野倉村(明治元年・1868年)/群馬県群馬郡三野倉村(明治4年・1871年10月)/熊谷県群馬郡三野倉村(明治6年)/群馬県群馬郡三野倉村(明治9年)/西群馬郡三野倉村(明治11年)/西群馬郡倉田村大字三ノ倉(明治22年)/群馬郡倉田村大字三ノ倉(明治29年)/群馬郡倉渕村大字三ノ倉(昭和30年・1955年)/高崎市倉渕町三ノ倉(平成18年・2006年~現在)
旧支配 〔近世・三野倉村・三倉村〕三之倉藩領(近世初期)/豊岡藩領/幕府領/幕府領・安中藩領の相給(寛文7年・1667年)/吉井藩領(寛文13年・1673年)/幕府領(貞享4年・1687年)/幕府領・旗本小栗氏領との相給(宝永2年・1705年)/小幡藩領(寛延元年・1748年)/幕府領(明和4年・1767年)/館林藩領(文政5年・1822年)/幕府領(文政7年・1824年)/岩鼻県(明治元年・1868年)/第一次群馬県(明治4年・1871年10月)/熊谷県(明治6年・1873年)/第二次群馬県(明治9年・1876年~現在)
歴史 検地は、寛永8年(1631)に実施され、村高745石余、うち田方273反余・畑方351反余・屋敷46反余であった(『倉渕村誌』)。村高は、「寛文郷帳」745石余、うち田方401石余・畑方344石余。「元禄郷帳」866石余、「天保郷帳」888石余、「旧高旧領取調帳」863石余。寛文7年(1667)から村を二分して三野倉上組・三野倉下組となり、両組とも名主世襲。元禄4年(1691)の下三野倉村年貢割付状によると、高416石余、反別51町8反余とあるが、享保年間(1716~1736)の検地によると、上三野倉村544石余・下三野倉村318石余となっている(『倉渕村誌』)。正徳6年(1716)の三野倉村上組の明細帳(『倉渕村誌』)によると、村役人は名主1人無給・組頭10人無給・定仕1人給金2両、田16町8反余で5等級、畑41町6反余で田と同様に5等級。百姓林42町5反・林主142人、5か村入会地の川浦山がある。田作種は、北国・かるこ・えいらく・徳右衛門餅など。畑作は、麦・大豆・粟・稗・蕎麦・小豆で、麦作は少なく雑穀が中心であった。家数181・人数868、馬数266。職人は、紺屋4・大工4・樋屋1で、他に医者1。当村は、2・7の日の六斎市が立ち、薪・茅・塩・茶・麦・米などが取引されていた。安永6年(1777)から、中山道坂本宿へ当分助郷が課せられた。大戸関所の修復について、近隣9か村とともに資材・人足を差し出し、川浦山間道の見張についても近隣5か村の課役で各村毎日2人の人足を出していた。当村は、信州街道・草津街道筋の宿場で、大戸宿・室田及び神山宿への宿継ぎ、信州松代藩・須坂藩・飯山藩の3藩(大名)の江戸廻米輸送、信州筋・吾妻郡方面の商人の江戸出し荷物の輸送、草津・川原湯・四万・沢渡温泉方面への湯治客の人馬の継ぎ送りなどで生計をたてていた。元禄年間(1688~1704)以降、吾妻郡の大笹問屋と大戸通り各宿の問屋との間に、度々荷物の争奪に関する紛争が発生した。地内には、戸榛名神社、石上神社、神明宮、白山神社、裾野社などがあり、寺院は室田長年寺末全透院、慈眼院三宝山祐全寺、福蔵院、法善寺などがあった。また、綱取には勢至観音堂がある。幕末の改革組合村高帳によると、大戸村寄場組合に属し、上三野倉村の高544石余、家数129、下三野倉村の高318石余・家数87であった。
伝来 高崎市倉渕町三ノ倉 旧倉渕村教育委員会
数量 17
年代 寛永8年(1631)8月~弘化3年(1846)10月
構造と内容 三野倉村の村方文書。群馬郡三之倉村御縄打水帳(寛永8年)、上野国豊岡領三野倉村巳御年貢可納割付之事(寛文5年)、午御年貢可納割付之事(弘化3年)、などがある。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第1集、インターネット検索目録
関連資料 参考文献:『角川日本地名大辞典10群馬県』、『群馬県姓氏家系大辞典』など
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
先頭に戻ります。