資料区分 県史複製
請求番号 H21-2-1近世
文書群名 牧野正夫家文書
伝存地 倉渕村(現高崎市)
出所 高崎市倉渕町権田 牧野家
地名 上野国群馬郡権田村(近世)/岩鼻県群馬郡権田村(明治元年・1868年)/群馬県群馬郡権田村(明治4年・1871年10月)/熊谷県群馬郡権田村(明治6年)/群馬県群馬郡権田村(明治9年)/西群馬郡権田村(明治11年)/西群馬郡倉田村大字権田(明治22年)/群馬郡倉田村大字権田(明治29年)/群馬郡倉渕村大字権田(昭和30年・1955年)/高崎市倉渕町権田(平成18年・2006年~現在)
旧支配 三之倉藩領(近世初期)/豊岡藩領/幕府領/旗本小栗氏領(宝永元年・1704年)/幕府領(天保8年・1837年)/旗本小栗氏領(天保9年・1838年)/岩鼻県(明治元年・1868年)/第一次群馬県(明治4年・1871年10月)/熊谷県(明治6年・1873年)/第二次群馬県(明治9年・1876年~現在)
役職等 酒造業(蔵元)
歴史 元禄3(1690)年、初代長兵衛が酒造り開始、群馬県内で最古の蔵元(牧野酒造株式会社)。▼村高は、「寛文郷帳」230石余、うち田方105石余・畑方124石余。「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領取調帳」とも375石余。延宝8年(1680)の百姓持山改帳によると、百姓持山112町6反余・所有者136戸(『倉渕村誌』)。名主は、寛永年間(1624~1644)から2家の名主の交代制(大正7年倉田村役場蔵文書)。正徳3年(1713)の年貢割付状によると、高378石余、納め合わせ米79石余・永45貫余(『倉渕村誌』)。安永年間頃(1772~1781)より、中山道坂本宿・同松井田宿へ代助郷や当分助郷が課せられた。大戸関所の修復について、近隣9か村とともに資材・人足を差し出し、川浦山間道の見張についても近隣5か村の課役で各村毎日2人の人足を出していた。川浦御巣鷹山の木戸番人足、烏川の川除普請・架橋などの負担もあった。万延元年(1860)、小栗上野介忠順は、村名主の佐藤勘兵衛らを伴い、日米修好通商条約批准書交換のため、使節として渡米した。慶応4年(1868)、主戦論を主張して御役罷免となり、当村の東善寺に隠棲した。同年4月、家臣らとともに官軍に捕らえられ、水沼川原で処刑された。鎮守は、戸春名(榛名)神社・諏訪神社、寺院は曹洞宗諏訪山東善寺、観音堂、子育地蔵尊などがある。幕末の改革組合村高帳によると、大戸村寄場組合に属し、高375石余、家数223であった。
伝来 高崎市倉渕町権田 牧野家
数量 8
年代 宝永元年(1704)4月~安政4年(1857)8月
構造と内容 覚(酒造売り立て代永書上、宝永元年)、一札之事(酒造蔵貸し渡しにつき、寛政12年)、酒造蔵借用申証文之事(7か年、家賃84両、安政4年)、などがある。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第1集、インターネット検索目録
関連資料 参考文献:『角川日本地名大辞典10群馬県』、『群馬県姓氏家系大辞典』など
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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