資料区分 県史複製
請求番号 H21-3-3近世
文書群名 原田芳春家文書
伝存地 倉渕村(現高崎市)
出所 高崎市倉渕町川浦 原田家
地名 上野国碓氷郡川浦村(近世)/岩鼻県碓氷郡川浦村(明治元年・1868年)/群馬県碓氷郡川浦村(明治4年10月)/熊谷県碓氷郡川浦村(明治6年)/群馬県碓氷郡川浦村(明治9年)/碓氷郡烏渕村大字川浦(明治22年)/群馬郡倉渕村大字川浦(昭和30年・1955年)/高崎市倉渕町川浦(平成18年・2006年~現在)
旧支配 三之倉藩領(近世初期)/豊岡藩領/幕府領/下総国古河藩領(延宝7年・1679年)/幕府領(天和元年・1681年)/小幡藩領(寛延元年・1748年)/幕府領(明和4年・1767年)/旗本佐々木氏領(年次不詳)/岩鼻県(明治元年・1868年)/第一次群馬県(明治4年・1871年10月)/熊谷県(明治6年・1873年)/第二次群馬県(明治9年・1876年~現在)
歴史 検地は、寛永年間(1624~1644)に実施した形跡がある。寛永20年(1643)、岩氷村を分村し、川浦村410石余・岩氷村169石余となった(塚越家文書)。村高は、「寛文郷帳」570石余、うち田方191石余・畑方378石余。「元禄郷帳」522石余、「天保郷帳」「旧高旧領取調帳」ともに519石余。正徳6年(1716)の年貢皆済目録(塚越家文書)によると、村高519石余、貢租は米48石余・永62貫文余、他に見取り・百姓林銭・山札銭・六尺給・御伝馬宿入用・御蔵前入用・御口米などが課されていた。。安永5年(1776)より、中山道坂本宿へ当分助郷を勤めた。大戸関所修復普請の資材・人足を差し出し、川浦山間道の見張、川除・橋架け普請などの負担があり、橋普請材料を伐り出す橋木山がある。名主は世襲制であったが、安永年間頃(1772~1781)から上組・中組・下組に分かれて交代制となった。川浦山は、寛永年間頃すでに岩氷・川浦・権田・三野倉・水沼の5か村の入会地であり、入会権をめぐる紛争もしばしば起こった。元禄9年(1696)の川浦村と三野倉村の紛争、貞享2年(1685)の川浦村と権田村の山論などがあった。川浦山のほぼ中央に御林山があり、元禄年間頃まで御巣鷹山があった。享保元年(1716)の御林調査(原田家文書/『倉渕村誌』)によると、御用木槻126本とある。天保5年(1834)、幕府は大戸村加部安左衛門・勢多郡水沼村星野七郎右衛門に命じて、公儀御用材として川浦山から大量のケヤキを搬出させた。烏川に流し、藤の木河岸から筏に組み、江戸へ送った様子は、川浦山御用木御筏出絵図(宮下家文書/『倉渕村誌』)に詳しく描かれている。寛保2年(1742)、洪水のため悪原の村落5軒が流失し、上ノ山に居住したといわれている(烏渕村郷土誌)。村内には、中山道碓氷関所と信州街道大戸関所に挟まれた間道の善光寺道がある。高芝には牛宿問屋場の地名も残り、信州と物産の交易があったことがわかる。月並みの木戸沢には番所が置かれた。鎮守は諏訪神社・浅間神社、寺院は利楽寺、十一面観音などがある。幕末の改革組合村高帳によると、大戸村寄場組合に属し、高519石余、家数182であった。
伝来 高崎市倉渕町川浦 原田家
数量 12
年代 貞享2年(1685)3月~万延元年(1860)
構造と内容 指上ヶ申蓮判一札之事(川浦御巣鷹山に付、貞享2年)、乍恐以書付奉願上候事(川浦山入会につき絵図証文詮議願、元禄9年)、扱証文之事(下三倉・水沼村出作百姓の年貢勘定出入、元文2年)、などがある。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第1集、インターネット検索目録
関連資料 参考文献:『角川日本地名大辞典10群馬県』、『群馬県姓氏家系大辞典』など
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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