資料区分 県史複製
請求番号 H22-8-1近世
文書群名 神沢重見家文書
伝存地 箕郷町(現高崎市)
出所 群馬郡箕郷町(現・高崎市) 神沢重見家
地名 群馬郡善地村(近世)/群馬郡善地村(明治4年~)/西群馬郡善地村(明治11年~)/西群馬郡車郷村善地(明治22年~)/群馬郡車郷村善地(明治29年~)/群馬郡箕郷町善地(昭和30年~)/高崎市箕郷町善地(平成18年~)
旧支配 高崎藩領(天正18年~、井伊氏)/幕府領(慶長6年~)/旗本領(正保2年~)/前橋藩領(寛延元年~、酒井氏)/安中藩領(寛延2年~、板倉氏)/安中県(明治4年)/第一次群馬県(明治4年~)/熊谷県(明治6年~)/第二次群馬県(明治9年~)
役職等 名主
歴史 善地の神沢氏は、戦国期には箕輪城主長野氏の家臣神沢市郎左衛門の名がある(長野氏家臣録)。重見家は善地の草分百姓となり、江戸期には代々名主を務めた。幕末には金平が寺子屋の師匠、明治6年(1873)善地村の総代を務めた。同39年(1906)建立された「神沢盤樹懐徳之碑」には、250名の筆子名が記載されている。
伝来 神沢家に伝来。
数量 363
年代 慶長6年(1601)~明治13年(1880)
構造と内容 慶長6年(1601)の「西上州車之郡善地村之御縄打水帳」(1/1、1/2)は県内でも最も古いものの一つとされる。この他にも名寄帳(2/25、2/22-2(表紙のみ))・水帳(1/4)・新開帳(1/18-2)・田畑改帳(3/21、2/22-1)等がある。▼文書の大半が年貢割付状である(214点か)。▼「差出し申詫書一札之事(嫁徳川満徳寺へ駆込み一件)」(5/349)など縁切寺である満徳寺への駆込についての文書が3点(5/281、5/507)あり、また別に離縁証文の「入置申一札之事(離縁一件に付)」(5/515)がある。▼「上野国群馬郡善地村田方畑方河欠砂押書付帳」(2/6)「田方永川砂押石数書上帳」(2/5)「畑屋敷川欠砂押反歩永取書上ケ帳・下書」(2/7)「浅間火山焼出砂降書留(富岡村名主高橋氏書留)」(2/222)といった災害に関する文書がある。▼「庚申縁記(持主善地村福島氏)」(5/553)がある。▼この他、書上帳・人別帳や村の運営に関する文書、山林の管理についてや諸産業に関する文書、明治期の物産取調書、鉄砲に関する文書、治安に関する文書、入木道(書道)等文化に関する文書等からなる。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第1集、インターネット検索目録
関連資料 「安中領御定書」(4/37)、「西上州車之郡善地村之御縄打水帳」(1/1、1/2)、「御林下苅議定書」(3/116)、「宝暦年度野付六ケ村札主拾三ケ村を相手取候願書之写(野山論一件)」(3/194)、「差上申御請証文之事(中尾根御林立木御払い落札に付)」(5/963)、「乍恐ケ条書を以奉願上候(夫代米免除・農兵御免他に付)」(5/285)、「揚砥山下請稼山法規定書」(3/125)、「差出し申詫書一札之事(嫁徳川満徳寺へ駆込み一件)」(5/349)、「入置申一札之事(離縁一件に付)」(5/515)、「浅間火山焼出砂降書留(富岡村名主高橋氏書留)」(2/222)、「〔唐傘連判状〕(吉五郎取り戻しの為)」(6/番外1)、「乍恐以書付御届奉申上候(博奕人罪科届)」(5/359)は『群馬県史』「資料編10 近世2 西毛地域2」に所収。▼「宝暦年度野付六ケ村札主拾三ケ村を相手取候願書之写(野山論一件)」(3/194)、「御許諭□(群馬郡大野入会野附6カ村・札元13カ村山論出入)」(5/554)はH22-14-1近世の文書と同じ山論についての文書か。『箕郷町誌』にもこの件について記載がある。▼『箕郷町誌』には「御林下苅議定書」(3/116)、「〔廻状〕(樽屋藤左衛門方改印の枡以外使用停止に付)」(5/276)、「乍恐以書付御届奉申上候(村内百姓姉徳川満徳寺へ駆込み一件)」(5/281)等が収められている他、『群馬県史』収集ではない神沢家の史料もとられている。▼参考文献:『群馬県史』(特に「資料編10 近世2 西毛地域2」)、『箕郷町誌』、『角川日本地名大辞典10』[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]、『群馬県姓氏家系大辞典』など
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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