資料区分 県史複製
請求番号 H22-10-1近世
文書群名 松本清家文書
伝存地 箕郷町(現高崎市)
出所 群馬郡箕郷町(現・高崎市) 松本清家
地名 群馬郡和田山村(近世)/群馬郡和田山村(明治4年~)/西群馬郡和田山村(明治11年~)/西群馬郡車郷村和田山(明治22年~)/群馬郡車郷村和田山(明治29年~)/群馬郡箕郷町和田山(昭和30年~)/高崎市箕郷町和田山(平成18年~)
旧支配 高崎藩領(天正18年~、井伊氏)/幕府領(慶長6年~)/安中藩領(承応3年~、水野氏)/安房勝山藩領(天和2年~、酒井氏)/前橋県(明治4年)/第一次群馬県(明治4年~)/熊谷県(明治6年~)/第二次群馬県(明治9年~)
役職等 名主
歴史 和田山を中心に、遠祖は和田義盛の一族という松本氏がある。和田氏は北条氏に滅ぼされ、一族が旧領の和田山に逃れて住み、その後、箕輪城主長野氏に仕えたという。戦国には、大八・八郎兵衛・三右衛門・四助が長野氏の家臣であったという(長野氏家臣録)。江戸期には和田山に土着し、藤兵衛が苗字帯刀を許された。また、清水内記邦正は箕輪落城以後、和田山の地を家臣の松本金左衛門吉勝に譲ったという(玉村町小沢摩利支天堂前灯籠銘)。江戸末期には、道雲が寺子屋の師匠となった。このほか、政五郎政春は、宮大工として伊香保町水沢観音の六地蔵塔や榛名神社の三重塔を建立した。明治3年(1870)に和田山村の名主を常吉、組頭を平松、百姓代を種次郎、明治6年(1873)には戸長を恒吉、総代を三津太郎が務めた。浅五郎は俳人で樵堂と号し、短歌も学び千年と号した。
伝来 松本家に伝来。
数量 58
年代 暦応5年(1342)~天保9年(1838)
構造と内容 和田山村の運営に関わる文書が大半を占めており、特に境争いなどの土地に関する文書が多い。婿入りや隠居に伴う文書もある。年貢や水利、山の運営に関する文書も含まれる。▼「〔絵図〕(榛名山下村々)」(1/254)がある。▼「〔裁許請書〕(武州・上州端物改料取立て一件騒動)」(1/119)や天明の浅間焼け後の社会情勢に関連する「覚(異変に付徒党禁止等の誓約)」(1/183)といった、当時の治安に関する文書がある。▼「養育御囲米拝借人之事」(1/141)、「養育御囲米拝借帳(代替りに付改め)」(1/7)、「〔覚〕(小児養育金1分請取)」(1/64)の窮民救済に関する文書3点がある。▼その他、和田山村の明細差出帳(1/13)、「〔板鼻宿伝馬助郷免除一件〕」(1/82)、鷹狩の負担のための組合に関する文書2点(1/214、1/224)、鉄砲に関する文書2点(1/168、1/番外1)、「〔瀧沢寺世代書上〕」(1/210)や「柴村観音堂扱下書」(1/48)といった宗教や文化に関する文書等も含まれる。▼暦応5年(1342)4月の「薄墨御綸旨写(諸国鋳物師商売の事)」(1/146)を含む。▼家に関する文書が含まれる。北条氏政(1/159、1/142)や結城秀康(1/243)から清水政勝への書状の写しや、清水内記邦正から松本兵部に宛てた「両頭之巻」(1/19)等は、松本氏が清水氏に仕えていたとされる来歴によるものか。
検索手段 『群馬県史収集複製資料』第1集、インターネット検索目録
関連資料 「申之物成書出之事(合18貫111文)」(1/242)、「〔覚〕(小児養育金1分請取)」(1/64)、「覚(異変に付徒党禁止等の誓約)」(1/183)、「柴村観音堂扱下書」(1/48)は『群馬県史』「資料編10 近世2 西毛地域2」に所収。▼参考文献:『群馬県史』(特に「資料編10 近世2 西毛地域2」)、『箕郷町誌』、『角川日本地名大辞典10』[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]、『群馬県姓氏家系大辞典』など
利用上の留意点 本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。
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