資料区分 |
県史複製 |
請求番号 |
H23-1-1近世 |
文書群名 |
神保新太郎家文書 |
伝存地 |
群馬町(現高崎市) |
出所 |
群馬郡群馬町(現・高崎市) 神保新太郎家 |
地名 |
群馬郡金古村(近世)/群馬郡金古村(明治4年~)/西群馬郡金古村(明治11年~)/西群馬郡金古町金古(明治22年~)/群馬郡金古町金古(明治29年~)/群馬郡群馬町金古(昭和30年~)/高崎市金古町(平成18年~) |
旧支配 |
高崎藩領(井伊氏→酒井氏→戸田松平氏→藤井松平氏→安藤氏)/幕府領(元禄8年~)/旗本領の相給(宝永2年~、松田・萩原・本多氏)/前橋県(明治4年)/第一次群馬県(明治4年~)/熊谷県(明治6年~)/第二次群馬県(明治9年~) |
歴史 |
金古の神保家は、遠祖が越中国の出身といい、慶長年間に多胡郡神保村(高崎市吉井町)から吾妻郡植栗村(東吾妻町)を経て金古へ移ったという。天明元年名主今城武右衛門に替わり、磯右衛門が7人の組頭の中心となり御用往来・問屋場業務を代行。同年に名主問屋預かりとなった。以降分家(要蔵・判太夫)とともに幕末まで代々金古宿上分の名主・問屋あるいは寄場総代を務めた。また、酒造業・質屋も営み、文政10年の質屋の規模は宿では最も大きかった(神保新太郎家文書)。11代目磯右衛門秀賢(臥雲)は、幕末に領主松田氏から金古宿郷代官とされ、渋川村寄場組合の小総代であった分家の要蔵(雪居)とともに和漢の学を修めた地方文人でもあった。明治以降も秦平が区長、統武が金古町長を務めた。 |
伝来 |
神保家に伝来。 |
数量 |
74 |
年代 |
元文3年(1738)~明治3年(1870) |
構造と内容 |
金古宿上分の名主・問屋あるいは寄場総代を務めた神保家に伝来した文書群。▼助郷役(4/165・1/488・1/248)や伝馬役(1/155)といった諸役(1/164・1/200・1/238・1/235)に関する文書や宿場に関する文書(2/384・2/333・1/205・2/22)、旅篭屋に関する文書(1/212・1/206・1/197・2/192・2/194・2/195・1/201・1/202・2/26・4/444)、継送り・継立に関する文書(三国通横道関連3点(2/551・2/324・2/552)のほか、3/18-1・2/382)といった交通に関する文書が多く含まれている。金古宿に関する文書が多いが、板鼻宿等に関するものもある。▼常仙寺の祠堂金に関する文書5点(1/100・1/104・1/99・1/103・1/114)や「借用金証文之事(金10両、善龍寺本堂建立奉加金)」(2/531)、「差上申寺例証文之事(半田村龍伝寺へ住職勤方)」(1/106)、「獅子組御吟味并御請書扣(鎮守祭礼にて禁止の獅子舞開催に付)」(2/393)といった宗教・信仰についての文書もある。▼その他、取調帳、土地や支配に関する文書、年貢・貢租に関する文書、質や酒造りといった諸産業に関する文書、離別・離縁状など戸口に関する文書、博奕や酒といった治安に関する文書等から構成される。 |
検索手段 |
『群馬県史収集複製資料』第1集、インターネット検索目録 |
関連資料 |
「入置申一札之事(小作入上相場に付)」(1/481、県史108)、「〔農間商ひ・諸職人・質屋取調べに付書上〕」(4/432・4/440、県史176)、「穀物相庭書上(穀物値下げに付)」(4/446、県史180)、「一札之事(助郷村々継立て疑心一件)」(1/488、県史289)、「身元調書上帳(旅篭屋5名)」(2/192・2/194、県史290)、「差上申一札之事(金古宿旅篭屋食売女不正一件処罰請書)」(2/202・2/201、県史292)、「越後・新潟御奉行并御役人御通行継立諸扣帳」(3/18-1、県史294)、「議定書(旅篭屋・茶屋渡世規定)」(2/26、県史295)、「獅子組御吟味并御請書扣(鎮守祭礼にて禁止の獅子舞開催に付)」(2/393、県史398)、「御用留(大地震他)」(4/9、県史406)は『群馬県史』「資料編10 近世2 西毛地域2」に所収。▼参考文献:『群馬県史』(特に「資料編10 近世2 西毛地域2」)、『群馬町誌』、『角川日本地名大辞典10』[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]、『群馬県姓氏家系大辞典』など |
利用上の留意点 |
本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。 |