資料区分 |
県史複製 |
請求番号 |
H23-3-1近世 |
文書群名 |
大山美雄家文書 |
伝存地 |
群馬町(現高崎市) |
出所 |
群馬郡群馬町(現・高崎市) 大山美雄家 |
地名 |
疋間村とも書いた。群馬郡引間村(近世)/群馬郡引間村(明治4年~)/西群馬郡引間村(明治11年~)/西群馬郡国府村引間(明治22年~)/群馬郡国府村引間(明治29年~)/群馬郡群馬町引間(昭和30年~)/高崎市引間町(平成18年~) |
旧支配 |
総社藩領(元和5年~、諏訪氏→秋元氏)/高崎藩領(寛永10年~、安藤氏→大河内松平氏)/幕府領(宝永7年~)/沼田藩領(寛保3年~、土岐氏)/前橋藩領(延享4年~、酒井氏→松平氏)/前橋県(明治4年)/第一次群馬県(明治4年~)/熊谷県(明治6年~)/第二次群馬県(明治9年~) |
歴史 |
引間の大山美雄家は、文化12年に藤左衛門が金10両を妙見寺へ寄進し、弘化3年に50両、嘉永2年に110の才覚金を用立てている(大山美雄家文書)。同家は醤油・酒など醸造業を行い、幕末には、運八が生糸の取引き有力者となり、前橋藩向領の糸商人議定に連印した(松井隆一家文書)。運八は、安政2年に前橋藩の勧農附属掛になったともいい、嘉永2年に、日光・鹿島方面への40日間の詳細な道中日記を残した(大山美雄家文書)。明治以降も、徳松・治平が国府村長を務め、また福次は高崎ハムの創設者の一人。 |
伝来 |
大山家に伝来。 |
数量 |
65 |
年代 |
享保13年(1728)~明治3年(1870) |
構造と内容 |
文化13(1816)年~文政12(1829)年間と、安政7(1860)年~明治元(1868)年間の奉公人請状が35点と大半を占める(4/151・1/149・4/150・4/155・4/146・4/148・4/143・4/139・4/140・4/147・4/145・4/142・4/144・4/154・4/156・4/141・4/153・4/136・4/129・4/135・4/138・4/137・4/131・4/127・4/122・4/134・4/124・4/132・4/128・4/123・4/125・4/126、奉公人手形(4/152)、奉公人年季証文(4/130)、奉公人証文(4/133)とするものもある)。▼奉公人請状の他は、「〔検地帳写〕」(2/27)や銘細帳(2/22・2/23)・書上帳(2/28)、「組合定(相談講組合)」(2/30)や御触書といった土地や年貢、村政、支配に関する村方文書で主に構成されている。「差上申一札之事(菅谷村と引間・棟高村用水堀筋出入裁許請書)」(4/81)の水利に関する文書や「現金仕切覚」(3/59)のような金融関連の文書、「作方万覚帳(蚕種・大豆・麦他)」(3/31)といった他産業についての文書も含まれる。▼他に大山運八が書いた「日光道中記」(4/42)があり、「浅間大変記 全」(2/37)や「郷御蔵番帳」(3/41)、「〔日記〕」(4/43)、「〔書状〕(入湯中の礼状)」(4/99)、「算法諸術書」(2/55・2/54,58)といった文書がある。 |
検索手段 |
『群馬県史収集複製資料』第1集、インターネット検索目録 |
関連資料 |
「組合定(相談講組合)」(2/30、県史76)、「差上申一札之事(菅谷村と引間・棟高村用水堀筋出入裁許請書)」(4/81、県史152)は『群馬県史』「資料編10 近世2 西毛地域2」に所収。▼参考文献:『群馬県史』(特に「資料編10 近世2 西毛地域2」)、『群馬町誌』、『角川日本地名大辞典10』[群馬県]、『群馬県の地名』[日本歴史大系10]、『群馬県姓氏家系大辞典』など |
利用上の留意点 |
本資料は撮影による収集資料であり、閲覧は焼付製本による。 |